Because, I’m
能楽師 後編
結果的に、個性が立ち上がる。
信長も秀吉も家康も大ファンだったと言われる能。能楽師がじっと動かずにいるイメージが強いが、その心拍数の研究からは、実はどんなマラソン選手よりも体力と気力が使われていることが証明されているそうだ。
ユネスコの無形文化財にも登録をされている能の世界とお酒の関わりを聞いた前編に続き、能楽師・寺井千景さんが登場。演じ手としての個性とは何かを語った。
Q. 能面に対峙すると、別の世界、異界へとつながるような気がしてきますが、何かが乗りうつるような感覚があるのでしょうか?
よく聞かれるのですが、私はそういう感覚はありません(笑)。修行が足りないのかもしれませんが、私たちはあくまでも冷静に、能という形で日頃の感謝を神さまに捧げるのが仕事。観てくださる方の思いをあちら側に伝える役割だと思っています。だから、私たち自身に何かが乗りうつってしまったら、皆さんの思いを届けられなくなってしまうのではないかな、と。常に自分を客観的にみている感じです。お客さまに寄りすぎず、押し付けず、そして神がからずに言霊をそのままに届けていく。私は、それがきちんとできる能楽師でありたいと思っています。
実際、能面をかけている時は視界も本当に狭いですし、次は角(スミ)に向かって3足で進んで・・と、決まった型を正確に乱れずに演じることで精一杯です。基本は、型を習得してそれを代々つなげていくのが役割だと考えています。
Q. なるほど。では能楽師の皆さんは、自己表現や個性を求めてはいけないということになるのでしょうか?
どうでしょうか? 私たちも舞台を舞わせていただけば満足感はありますし、自分の声を出し、自分の身体で舞っていますから、それは自己表現とも言えるかもしれません。
ただ、代々受け継がれてきた動きをそのままに、基本は絶対に変えてはならないと考えています。私は、勝手に、決まった型の中に自分流の抑揚をプラスしたり、感情表現を入れるということはありません。新しさをブレンドしていくのではなく、古くから大切に研ぎ澄まされてきた芸を、そのまま純粋に受け継いでいく。私の表現を観ていただくのではなく、観る方それぞれが、それぞれの想像を拡げていただくきっかけとしての演技を追求することが大切なのだと思っています。もちろん、これは私の考え方であり、寺井家の考え方。私は古典をしっかりと守るということを重要視していますが、多くの能楽師がいるので、それぞれの理想があってもいいと思います。
能は指揮者無しで進む演劇で、それは舞う人、謡う人、音を奏でる人の全員が、すべてを同じように学んでいるからできることです。その時に集まった演じ手全員の阿吽の呼吸で進みます。そこでは決まった型を同じように演じますが、0.1秒早かったり、手足の角度がほんの少し違ったりする。そういう風に、積み重ねたお稽古の中で、師匠から伝承された癖のようなものが意図せずに現れます。これが、個性なのではないかな、と思っています。個性的であることを目的にするのではなく、真剣に向き合ってきた先に意志を超えて現れ出すもの、それこそが深みのある個性なのかもしれません。
Q. 個性ということを改めて考えますね。最後に、知る人ぞ知る、お能ネタはありますか?
いろいろありますが、御幕を開けるための「おまーく」「おまく」「お〜ま〜く」という掛け声は面白いかもしれません。橋掛かりと呼んでいる舞台の左側から主役のシテ役が登場する時は、シテ役自身の掛け声が合図となって御幕が上がります。「おまーく」といえばスルスルと上がり、「おまく」と早口で言えばスッと早く、「お〜ま〜く」とゆっくり掛け声をかければ、幕もそろりそろりと上がります。これも、シテ役がその日の気分で勝手にリズムを決めるのではなくて、ある程度演目によって決まっているんです。能舞台の始まりには拍手などもないので、幕に近いお席であれば、かすかにこの声も聞こえるかもしれません。耳を澄ましてみてくださいね。
お能は、観るのも楽しんでいただけますが、実は「実際にやってみる」のもおすすめです。腰を落としてゆっくり動くので、お仕舞いは想像以上にからだを使いますし、声も出すので健康にもいい。お能に限りませんが、仕事と遊びだけになりがちな大人の暮らしの中にお稽古事を持つ、というのはとても有意義だと思います。何か一つ、少しずつ習得していくというのは豊かな暮らしへの一歩になると思います。そういう日々の積み重ねが、その人の個性につながっていくように思います。
(後半 了)
写真 間部百合
インタビュー・構成 土本真紀(µ.)