Because, I'm Because, I’m<br>能楽師 前編
Interview 02 / 寺井千景さん

Because, I’m
能楽師 前編

知れば知るほど、能楽は身近だ。

人も妖精も、お酒が大好き

「初心忘るるべからず」という言葉を、結婚式や入社式などで耳にしたことのある方も多いと思う。が、これが能楽を作り上げた、かの世阿弥による秘伝書『風姿花伝』に書かれた言葉ということは意外に知られていないのではないか。実は、私たちの生活には室町時代から約700年にわたり続く能楽のエッセンスが溶けこんでいる。
今回は、戦後にようやく女性にも門戸の開かれたプロの能楽師の世界で活躍する寺井千景さんに、「能とお酒」のことを聞いた。知れば知るほど、高かった能楽への敷居が低くなっていくような、能楽のお話。

Q. 能にも、お酒にまつわるストーリーなどもあるのでしょうか? 酔っ払いが登場するような演目があったら、親近感がわいてきます。

実はお能にもたくさんお酒のシーンが出てきます。お祝いやお別れのシーンなど、今で言えば宴会の場面には、昔からお酒がつきもののようですね。今日はお酒にまつわるお能、ということで真っ先に頭に浮かんだ「猩々(しょうじょう)」を演じさせていただきました。主人公はお酒が大好きで、足元がヨロヨロとおぼつかない。千鳥足です。もう、顔も髪も着ているものもすべてが真っ赤。とは言っても、この主人公は人ではなくて妖精のような存在で、理性や記憶がなくなるほどの酩酊状態ではないと思います。酔っ払いと呼んでは失礼かもしれませんね。

お能は想像の芸能で、演じ手の私たちが決められた型で象徴的に演じ、それをご覧になっている観客の皆さまがイメージを膨らませることで完成します。つまり、どう感じるかは自由。今日「猩々」をご覧いただいて、“あー、この主人公はめちゃくちゃ酔っているな〜”と思うか、“ほろ酔いで心地よさそうだ”と思うかは観てくださる方の自由なんですよ。敷居が高いと言われがちな能楽ですが、観ていただく方は気楽に楽しんでいただきたいな、と思います。

Q. なるほど。「猩々」はどんなストーリーなのでしょうか?

「猩々」というのは海に棲む主人公の名前で、酔いの楽しさとともに演じられていきます。ある親孝行の男に、猩々が汲めども汲めどもお酒の尽きない甕を与えて、それにより男は豊かになっていくというお話です。45分くらいで短く内容も理解しやすいですし、見た目にも派手で楽しいので、初めて能を鑑賞される方にもおすすめの演目ですね。
ちなみに、今日つけているこの真っ赤な能面は、1700年代頃の作品です。能面は、直接触れていいのは面紐をかけるために穴が開いている耳のあたりの部分だけ。手の脂や汚れで彩色が落ちないように大切に扱います。それに、能面をかければそれは自分の顔になるのですから、そういう意味でも素手などでは直に触れないようにしています。もともとヒノキやキリ、クス、サクラなどの木材を彫ってつくりますが、ずっと使われてくる中で自然なツヤが生まれたのかもしれません。長い年月の重なりが、なんとも言えない肌ツヤを宿らせていて美しいんです。今でも観阿弥や世阿弥の時代、700年前に使われていた能面などの名品が数多く残っています。

もし、能楽堂などでこの演目をご覧いただく機会があったら、装束にも注目していただけたら。能楽の装束は“フリーサイズ”で、男性も女性も、太めでも細めでも、背が高くても低くても、同じサイズを着ます。だから、からだを補整するための胴着をつけていますが、皆さんが想像されるより軽いんです。装束を着る、私たちは“つける”と言いますが、これも自分ではできなくて、前と後ろ、それぞれプロの能楽師が担当について2人がかりで着せつけてもらいます。

猩々の半切り(袴のような装束)には青海波模様が描かれていますが、これは水や波を表現していてシーンを理解するヒントにもなっているんです。装束一つひとつにまでさまざまな工夫が凝らされているんです。他にも、扇の動きもぜひ見ていただけたらと思います。そっと手を添えて盃に見立ててみたり、斜めに構えてなみなみお酒が注ぐ様子を現したり。そういう細かな所作からも、想像を高めていただけるのではないでしょうか?

Q. 髪型も派手ですね。歌舞伎の連獅子に似ています。能面や装束などは、能楽師の方がそれぞれで全て持っているのですか?

「猩々」は、お酒に酔って髪まで真っ赤ですね。歌舞伎の連獅子は、もともと能楽の「石橋(しゃっきょう)」という演目を大衆化させたものですが、実際にこの赤い髪は能楽の「石橋」でも使います。馬の毛でできていて、柘植の櫛でといて形を作っていきます。

私は、父も妹も観世流の能楽師で、装束や能面などは父が集めています。現代では、基本的には家や個人で所有しています。だから今日見ていただいた猩々の衣装も、「すべてが赤い」ということや「青海波模様」などの共通点はありますが、いつでもまったく一緒のユニフォームということではありません。

能は想像の芸能とお話しましたが、決まった型の中にもその日の演じ手の息遣いや装束の違い、お囃子方のリズム、観客の皆さんの想像などのすべてが絡み合って生まれるその時だけのムードで完成する一期一会の芸術です。ワインも、抜栓して空気に触れた瞬間、その場の空気に触れて味が変化していくと聞きますが、同じですね。
知っていることが増えれば増えるほど、お能を見て想像できることが変わり世界も拡がっていきます。まずは気軽に、この世界を体感してみていただけたらと思います。

(前半 了)

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写真 間部百合
インタビュー・構成 土本真紀(µ.)

寺井千景さん

能楽観世流シテ方。東京芸術大学大学院修了 父である寺井栄(観世流職分)に師事。3歳で仕舞『老松』にて初舞台。妹も能楽師として活躍する能楽一家。2009年より、シンガポールにあるラサール芸術大学での能レクチャーなども続けている。

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