Because, I'm Because, I’m<br>海洋人間 前編
Interview 20 / 八幡暁さん

Because, I’m
海洋人間 前編

知れば知るほど、サバイバルな生き方は人を強くする。

大昔の人は渡れた、だから自分も渡れるはず。

2002年に「グレートシーマンプロジェクト」の活動を開始し、シーカヤックでオーストラリアから日本に至る世界でも屈指の多島海域を、島々を巡りながら人力航海を成功させた八幡暁さん。04年には神奈川~沖縄、05年には西表島~沖縄本島、06年には台湾~与那国島、07年フィリピン~台湾……と、壮大な航海記録を綴ってきた。海という自然を相手に彼はなぜそこまでの挑戦をしたのだろう。大海原を一人行く心境はいかなるものだったのか。彼が住む沖縄・石垣島にて、当時をふりかえってお話を伺った。

Q. 八幡さんと、海、シーカヤックとの出会いについて教えてください。

僕は、高校、大学と、アメフトをやっていたんです。でも、体育会系のルールやしきたりが嫌になり大学1年で辞めてしまった。目的を失っていたとき八丈島で海に潜ってモリで魚を突いて生活している人がいると知り、なんか興味があって会いに行ったんです。素潜りの名人で、僕も一緒に海に入り見せてもらったんですが、20メートル下の海底にいる魚がその人には見えていて、水中をまるでイルカように潜っていく。これはすごいと感動しました。獲った魚をきれいにさばいて食べて、対面で売ったり、近所に配ったりして生活していた。そのとき、ああこれが人間本来の営みなんだと思いました。それまでは魚に限らず、食べ物はスーパーで買うものだと思ってたし、学生だったので親の金で食わせてもらってて、初めて僕もそんな風に身一つで生きてみたいと思ったんです。それまではスポーツのために体を動かしていたけれど、生きるために体を動かすことがすごく楽しく感じた。
それからです、自分も魚を獲ろうと八丈島で素潜りを始めたのは。結局、卒業までに八丈島の海の魚は、ほぼ全種類獲って食べました。名前を聞いてもわからないような魚がまた旨くて。

シーカヤックの練習を始めてまだ数回という時、既にオーストラリアから日本に至る多島海域の航海を決めた八幡さん。周りからは「それ、おかしいよ」と言われた。

そしたら新しい疑問がわいてきた。海にはこんなにいっぱい美味しい魚がいるのに、なぜほとんどが売られてないんだって。市場には、安定供給されるものしか置かないから、一匹一匹手間暇かけて獲った魚なんて価値がないとみなされる。でも、大昔の人は目の前の草や魚を食べていたはずでしょう。そう考えると、大昔の人と現代人とでは同じ人間なのに食べているものが全然違うことになる。本来、人間がその土地で生きるってどういうことなんだろう……なんて。

僕も魚を獲って生きてみたい。そんな風に思って、卒業後は就職せずに、バックパックにモリとフィンだけ持って、国内外の漁村巡りを始めたんです。1カ月バイトして旅費を貯めて3カ月旅をする、そんな暮らしを繰り返していました。行先は、その時に行きたいところ。北海道、九州、沖縄、インドネシア、トルコ、ギリシャ……、現地の海で生きている人たちを見たかった。
20代半ばで、気になる所には全部行ってしまい、どこにいても生きていける自信もついた。でも結局、まだ本当に行きたかった所に行けてない気がしたんですね。

陸の孤島で船が就航する港もないような島。そこには、文明から切り離された原始的な生活を営む人たちがいるはずで、彼らがどんな風に生きているのか知りたいと思いました。そこに行く道具として最も適していたのがシーカヤックだったんです。シーカヤックに出会った時、もう自分には行けない場所はないと思いました。シーカヤックの原型って丸太舟なんです。3万年、4万年とか前の昔の人は、みな丸太を漕いで海を渡っていたはずでしょ。もちろん命も危険だし、死んでしまった人もいたでしょう。だけどその島に村落があるということは、かつて女性を連れて移動できたという証拠。安全で最適なルートは必ずあるはずで、きっと自分にもできるって思ったんです(笑)。

モリで魚を獲ることを習得した若き日の八幡さんは「これでもう、一生食っていける」と思ったそうだ。

Q. とはいえ危険なこともあったのでは?それに、水とか食料とかはどうされていたのでしょう?航海中のことを少し教えてください。 

かなりきつかったのは、フィリピンと台湾の間のバシー海峡を渡った時です。南シナ海、太平洋、黒潮が交わる難所で、距離はそんなでもないですけど、海底から上昇する潮の力と海流の力が強いエネルギーが常にぶつかり合っている、人力ではかなりきつい海域なんです。
なおかつ速度も必要で、時速6キロを保っていれば何とかなるけど、3キロに落ちたら死んじゃうみたいな。27時間くらいは寝ずに漕いでました。波があらゆる方向から絶えずかぶさってくるなか、頭では絶えず自分の読みとズレてるぞとか、このくらい流されたから戻しておこうとか、このペースだとデッドラインに入るぞとか、算段を巡らせるんです。つまり、死なないための組み立てをしているんですね。恐いとか、死んだらどうしようとかうろたえているヒマはありません。そんなことをやっていたら本当に死んじゃいますから(笑)。

水については、スタートは街からなので最初だけ少し積んでいくんですが、だいたい23日でなくなってしまう。だからほとんど現地で調達していました。雨季を狙ってその地域に入って行ったり、山の谷筋から上陸して水をくんだり。食料はモリで魚を獲りながら旅していました。現地調達も目的の一つでもあったんですね。自分の手で必要なものを手に入れて、どれだけ生きられるか試してみたいかった。

方角は星が頼り。星は女性とロマンチックにお話するための道具かもしれないけれど、僕にとっては生き残るための大切な道具。スターナビゲーションなんて言うけれど、星って規則性がずれることはないから、星がどう回転するか覚えればいいだけのことで、実は全然難しくないんです。星座も自分にとって都合のいい星座をつくればいい。それが1時間に15度ずつ動くわけで、今日僕が作った〇〇座、いまは天井にあるけど、下に行ったら6時間たったなとかね。大昔の人もそうやっていたんじゃないかな。

自分の力で数々の困難をどう乗り越えるか、大昔の人のように……。それができたとき彼の中に自信とともに、先人への敬意も生まれていた。

Q. 八幡さんの航海の理由がわかってきた気がします。このインターネットの時代に、なぜそこまで大昔の人と同じようにやってみようと思ったのでしょう。

確かに今の文明って、煩わしさをできるだけ省いて、すぐ成果を出す方向に進んでいますよね。そういうしくみをつくった人間が富を得ているのも事実です。スマホがまさにそうですよ。でもそれって人間としてはどうなのかな。

今は知りたいことの答えを操作一つでダイレクトに得られるかもしれないけれど、ひと昔前なら辞書をペラペラめくりましたよね。めくりやすいようにクシャクシャにしたり、それでもわからなかったら親や先生に聞いたり、色々工夫や努力をしたものです。そういうことは確かに面倒くさいけれど、それで初めてわかることもあると思うんです。それと同じように、自分がリスクを負って漕いで渡るからこそ、文明が発達していない地域に生きている人の気持ちを知ることができる。この人たちはこんな激しい海で漁をしているんだなとか。僕が漕いで周ったエリアって、特にオーストラリアから日本の間は、世界の中でも島が一番多い海域なんですよ。名もない島々なんて言われることもあるけれど、実は名前もちゃんとある。どんなに世界が便利になってもインフラが繋がっていないと、そこのことは永遠にわからないんですね。情報が開示されないだけで、地域のことやそこで生きている人たちのことは、ずっとわからないままなんです。

モリやフィンはカヤック同様、彼の人生でもっとも関係性の深い相棒のような道具である。

僕の目的は、人類のたどってきた道や、その先の人々の生き方を知ることで、シーカヤックはその地に辿り着くための手段であり道具でしかないわけです。
だから僕は冒険家とは違うと思っています。冒険家って誰もやっていないことをやってみせることに社会的価値があるわけじゃないですか。冒険家になろうって人は僕みたいなことはしない。島から島へ繋いで渡っても、前代未踏でもないし、記録にこそないだけで、かつて大昔の人はそうやって島と島を移動していたはずですから。僕にとっては、海に出たときに自分の力でどう危機を回避できるかを知るのは、とても意味があることだけど、社会的な価値はあまりない。お金にもならないし。だから誰も真似する人がでてこないんです(笑)。

撮影:八幡暁(フィリピンバラワン島 2011年1月)

(前編 了)

後編はこちら

写真 森河美帆
インタビュー いからしひろき
編集 徳間書店

八幡暁さん

やはた・さとるさん
1974年、東京都出身。大学時代に海に生きる人々の暮らしに惹かれ、卒業後は世界各地の漁師の仕事を学びながら旅をする。その過程でシーカヤックに出会い、2002年オーストラリアから日本への人力航海に挑む。その後、インドネシア・ニューギニア島西南岸700km横断、フィリピン〜台湾海峡横断など、世界初の航海記録を数多く達成。2005年から沖縄・石垣島に移住、「手漕屋素潜店ちゅらねしあ」を運営。「身の丈+10㎝の経験」をコンセプトに、“生きる”を実感できる自然体験ツアーを主催している。
https://www.churanesia.jp/

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