Because, I’m
紋章上繪師 前編
日本の伝統デザイン家紋を見直すのは今!
下町の風情が残る東京・東上野。下谷神社のほど近く、細い路地裏へ入ると「誂処 京源」の屋号が入った暖簾がある。着物に家紋を入れる「紋章上繪師(もんしょううわえし)」の工房である。
家紋といえば、お城や寺などの歴史的建造物では見かけるが、身近なところでは冠婚葬祭のときの留袖や風呂敷、または墓石等に使われているものの最近は殆ど目にしなくなっている……。と思いきや、家紋の新しい波がいま日本、いや世界へと広がりつつあるという。その発信地はここ京源。三代目の波戸場承龍さん、息子の耀次さんにお話を伺った。
Q. 家紋について知っているようで実は何も知らないことに気づきました。できれば、家紋の起こりとか基本から教えていただけますか?
承龍 実は、家紋についての文献資料はあまり残っていないんですが。家紋は、平安時代の末期に公家の文化から生まれました。「氏」から「家」という概念が起こった事で、一族の象徴として使っていた自分好みの紋様を、その家を表す印として使い始めたのが家紋の始まりとされています。鎌倉時代(1185-1333)以降になると、公家のガードマンだった武家にも広がります。武家は「戦」を生業としていましたので、戦で敵味方を区別する印として家紋が使われるようになります。
面白いのは、家紋は一家にひとつではなく、天皇や将軍から下賜されたり、好きな紋を用いたりして、複数の紋を持っていました。
戦国時代(1467-1615)の武将で有名な織田信長(1534-1582)も織田家の代表紋「織田瓜」以外にも、天皇より賜った「十六枚菊」、室町幕府の最後の将軍、足利義昭から授かった「五三の桐」など計7つの家紋を用いています。家紋は自分の存在を表すアイコンとして使われていたといえます。
江戸時代になると参勤交代が盛んに行われるようになりますが、諸大名が江戸に来る際一行の衣服や籠等に家紋が使われました。家紋によって家格もわかりますから、参勤交代の途中で遭遇した場合に失礼のないようにという礼儀作法の一つとしても機能していたようです。
Q. 家紋を見て位がわかるといえば、ドラマ水戸黄門の印籠を見て全員がひれ伏すシーンが印象的ですよね。
承龍 それまで明確な規制がなかった家紋ですが、葵紋は規定が設けられ徳川家以外には使えませんでした。「葵の御紋」は徳川家の絶大なる権威の象徴だったんです。
元禄時代、泰平の世となってくると家紋はいよいよ庶民の文化の中に入り込みます。
商家も屋号として紋を使うようになり、人気商売だった歌舞伎役者や力士、落語家も手ぬぐいに紋を入れて贔屓の客へ配っていました。名字を持つことが禁止されていた庶民も、家紋を持つことを許されます。すると、かんざしやキセルにちょこっと入れるなど、装飾用として使うのが粋だとされ、ファッション的な要素が強くなるんですね。庶民の間で流行となった家紋の文化は、全国へ爆発的に広がっていきます。着物を専門に家紋を墨で描き、デザインを行う「紋章上繪師」も江戸時代に誕生したんです。
Q. 家紋が大流行したんですね。家紋のデザインって植物、動物、道具などモチーフもさまざまで面白い!
承龍 そうですね。公家の文化から生まれた家紋を見ると、昔の人は短命だったので、災いや魔物から身を守るための魔除けにしたり、家を途絶えさせないように子孫繁栄の象徴になる図柄を使うことが多かったようです。
たとえば「片喰(かたばみ)」は世界中どこの道端でも見られる多年草で、繁殖力が旺盛なことから好まれました。
また花鳥風月を愛でた平安貴族の生活の中から生まれた家紋には、牡丹、藤、桐など植物がいちばん多い。さらに古代の人々は太陽と月を神と崇めたことから、日月信仰にもとづく「日月」の紋があります。陰陽師の安倍晴明が使用した家紋は、五芒星という星型でした。
武家の文化から生まれた家紋を見ると、毛利元就は「沢瀉(おもだか)」という花を家紋に使っています。沢瀉は葉の形が矢尻のようになっていて、水辺に群生する植物です。戦場で沢瀉の葉にトンボが止まった様子を見た元就が「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と確信し、合戦に大勝利したと伝えられています。公家の紋様は優美なデザインが多いのに対し、武家の紋様は実用的でよりシンプルですね。
庶民の文化から生まれた家紋を見ると、楽器や玩具、器具などをモチーフにしたものが新たに加わり、家紋の種類や形が一気に増えました。さらに「見立て」といって、ある形を別のもので表現したり、もとの紋の形や特徴をなぞらえたりすることが盛んになります。たとえば星で梅の形を表現したり、団扇を梅の花びらになぞらえたり…オリジナルを「~風」に自由にアレンジしたわけです。
(家紋資料出典:『紋の辞典』波戸場承龍・波戸場耀次著より)
Q. これまで承龍さんには家紋の魅力を解き明かしていただきましたが、波戸場家四代目を継ぐ耀次さんは家紋の面白さをどんなところに感じていますか?
耀次 家紋は1000年以上もの長い歳月を経て継承され、日本固有の文化として根づいています。現在ではおそらく5万種類以上のデザインがあるといわれています。しかし、家紋や紋章上繪師に関する一次資料は残っておらず、いまだ多くの謎に包まれているのです。公家から武家へ、そして庶民へと全国に広がるなかで、家紋もまた土地の文化背景や生活様式に合わせてさらに変化していきました。家紋を使うことにルールはなく、登録や届け出も不要。だから、何故その紋に決めて、どのタイミングで使われ始めたのかというルーツを探ることも難しいのです。
そうした家紋の自由さにはメリットもあって、新たに好きな紋を作成してもいいのです。家紋に対する概念を一新して、自由に考えられることも家紋の面白さ。僕ら、紋章上繪師は新たなものを生み出していくデザイナーでもあるのです。
Q. 「紋章上繪師」という仕事も初めて聞きましたが、波戸場家では代々受け継がれてきたのですか?
承龍 家紋を手描きで着物に入れることを「紋章上繪」といい、その職人を「紋章上繪師」と呼びます。もともと僕の祖父、初代波戸場源次は「紋糊屋(もんのりや)」でした。紋糊屋というのは家紋を着物に描く前の工程で、白生地に紋の形に糊を置いて防染をする職人です。二代目である僕の親父、源も最初は紋糊屋をやっていましたが、絵が上手くて手先も器用だったので、お得意先に勧められて「紋章上繪師」として独立したんです。昭和39年(1964年)に家紋を色紙に描いて額装した作品を発表しました。
これが「家紋額」として全国に広まり、新築や結婚式のお祝いに使われ、多くの家で飾られるようになりました。父は注文を受けると、納得がいくまで何枚も色紙を描き続けていた。それが部屋中に並べられていた光景を思い出します。
そんな父の姿を見ていたので、僕も紋の形に対するこだわりが強くなったのかもしれません。子どもの頃から型彫りの作業を手伝っていて、高卒後は日本橋の紋章上繪師のもとへ弟子入りしました。弟子入りした当初は、朝早く火鉢の炭を起こし、その中で熱した鉄ゴテを使って仕事に取り掛かる日々でした。
約5年間の修業を経て、23歳で独立してからは、紋章上繪の職人として、ひたすら家紋を描いていました。
室町時代、武士の正装が裃になり、家紋を描く技法が確立されたといわれるんですが、いまも変わらないんです。家紋の特徴は円と線のみで描くこと。フリーハンドではなく、円を描く「分廻し(竹製のコンパス)」、直線を引くための「溝引き定規」、「ガラス棒」の4つの道具を使い、墨と筆で描きます。
江戸時代後期に活躍した浮世絵師、葛飾北斎も紋をいくつか作っていますが、「万物はつまるところ方と円に尽きる」という言葉を遺しています。
どんなに複雑に構成されているように見える図象も、分解していけば最終的に方(四角)と円が残るということ。家紋は、余計なものを削ぎ落していき、形の本質的な美しさにたどりついたものなのです。
本来、家紋は小さな円の中に描くので、繊細な線が求められます。小さいものでは直径21ミリという円の中に、どんなに複雑な曲線も分廻しを使って大小の円の一部を巧みにつなぎ合わせて描いていく。「毛一本」といわれる線の太さは0・08ミリほど。墨の濃さや筆に含まれる墨の量、描くスピードなどのコンディションを均一に保ちながら、すべての線を一定の太さで描いていきます。
現在では紋章上繪師も数えるほどしかいなくなりましたが、波戸場家ではこうした手描きの技術を守りながら、家紋の制作を続けてきたのです。
(前編 了)
写真 sono
インタビュー 歌代幸子
編集 徳間書店