フィラディスワインニュース

ナチュラルワインの真実

ワインの最も厄介な問題のひとつ、「ナチュラルワインは一時的な流行なのか、それとも未来なのか」。このテーマについて、Master of WineのKonstantin Baum氏による調査の記事をお届けします。


2012年、私(=Konstantin Baum氏)はロンドン中心部の小さなワインショップに行き、初めてのナチュラルワインのテイスティングに参加しました。

 

当時、このカテゴリーが注目を集め始めたばかりだったので、この新しいワイン造りの波についてもっと知りたくなりました。参加者は若くて流行に敏感な人々で、私たちはそこで、「ナチュラルワインは亜硫酸を添加せずに造られている」と教えられました。どうやら、硫黄を含まないワインだけが、『自然のまま』のワインを表現できるらしいのです。

 

当時から、SO2がアルコール発酵によって自然に生産される副産物であることを私は知っていました。実のところ、何も添加しなくても、亜硫酸が全く含まれないワインは存在しないのです。しかし、私はそのイベントの楽しい雰囲気を台無しにするような、知識をひけらかすドイツ人になりたくなかったのです。

 

ワイン自体は興味深いもので、香り高く、爽やかで、個性に満ちていました。その会場で、あるフランス人カリスマ醸造家は、ラングドックで1人の醸造家として送った日々の酒にまつわる逸話を交えながら、最小限の介入による醸造について説明しました。試飲会を終えた私は、自然派ワインには未来があるかもしれない、と考えながら帰路につきました。

 

数年後には、パリ、ローマ、ブルックリンの流行のワインバーに入れば、どんなワインが並んでいるか、ほぼ予測できるようになりました。手描きのラベルと蝋キャップがついた、濁った琥珀色のワインがずらりと並び、ビーニー帽をかぶり、口ひげを生やし、ブドウ樹のタトゥーを入れた誰かによって注がれるのです。ナチュラルワインは単なる飲み物ではなく、ムーブメント、姿勢、そしてワインはありのままで、正直で、生き生きしたものであるべきだという宣言へと変貌を遂げていきました。

 

それから10年が経ち、状況は一変しました。ナチュラルワインは姿を消したわけではありませんが、かつてほどの反骨精神は失われました。今や「自然派」のボトルは、スーパーマーケットやミシュランの星付きレストラン、企業主催の試飲会などでも見つけることができます。かつては馬鹿にしていた醸造家の中には、ひっそりと独自の「亜硫酸無添加」キュヴェを生産している人もいます。

 

では、ナチュラルワインは今もトレンドなのでしょうか?それとも単に主流に吸収されてしまっただけなのでしょうか?

 

ナチュラルワインとは何か?

」を定義することは、常に困難を伴いました。その理由の一つは、ワイン自体が自然の産物ではなく、文化的な産物であるという事実に始まります。発酵プロセスにおける人間の介入は、欠陥ではなく特徴なのです。

 

確かに、野生のブドウの木の下では、ブドウが地面に落ちてその果汁が発酵し始めると、自然に発酵が起こるかもしれません。しかし、その結果生じる腐ったブドウの濁った液体は、私たちがワインを注文するときに期待するものではありません。

 

ナチュラルワインには公式認証も統括団体もなく※、意見の不一致が多く存在します。その根底にある考え方は至ってシンプルです。有機的またはビオディナミ農法で栽培されたブドウを使用し、天然酵母で発酵させ、添加物や技術的な操作を一切行わずに造られるワインです。化学肥料、研究室で培養された酵母、清澄剤は使わず、理想的には亜硫酸の添加もありません。

(※注釈:フランスでは2020年、フランス農業省とINAO(国立原産地名称研究所)の協力のもと、有機栽培のブドウの使用や、醸造時の添加物・物理的介入を極力避けるといった厳格な基準を持つ自然派ワインの公式認定制度「Vin Méthode Nature(ヴァン・メトード・ナチュール)」が発足)

 

しかし、ナチュラルワイン運動の教義に異議を唱えると、しばしばそれらは成り立たないことがわかります。Raw Wine Fairの創設者であるIsabelle Legeron MWは、ナチュラルワインを「セラーで何も加えたり、取り除いたりせずに造られるワイン…その結果、健全で自然発生的な微生物学に満ちた生きているワインとなる」と定義しています。

 

それは崇高に聞こえる考えですが、「何も加えたり、取り除いたりせずに」造られたワインは純粋ではありません。汚れているのです。土、葉、茎、種、そして酵母が含まれることになります。そして、「自然発生的な微生物学に満ちた」ワインは、ボトルの中で発酵を続けるか、マロラクティック発酵を起こすワインです。インフルエンザで汗をかいた一日の後にベッドの横に積み重ねられた使い古しのティッシュも「自然発生的な微生物学に満ちて」いますが、それを新品のティッシュよりも健康的な代替品として売り込もうとするのはやめてほしいものです。

 

自然派ワインの定義がこれほど曖昧なままである理由の一つは、その支持者でさえ、自分たちのルールに従うのに苦労しているからです。Raw Wine Fairに出展するためには、生産者は少なくとも有機栽培を行い、ブドウを手摘みで収穫し、低温殺菌を避ける必要があります。これらはすべて合理的な基準です。

 

しかし、その先は線引きが曖昧になります。ワイナリーは、スパークリングワインの二次発酵を開始するために酵母を添加することが許可されています。また、申告すればワインを清澄したり濾過したりすることも認められています。例外的なヴィンテージでは、補酸や補糖さえ可能です。

 

しかし、このムーブメントの主なセールスポイントは、ナチュラルワインには硫黄が添加されていないという点です。間違いなく、ここで一線が引かれるはずです。そうですよね? 

 

・・いいえ、間違いです。Raw Wine Fairでは、総亜硫酸塩レベルの上限を50 mg/Lと定めています。これは欧州連合の最大値よりもはるかに低いですが、ゼロからは程遠く、従来型の生産者にとっても珍しいレベルではありません。

 

真実は、いつものことながら、一言のスローガンよりも複雑です。ナチュラルワインを真に理解するためには、それがすべて始まった場所、つまり原点に立ち返る必要があります。

 

ナチュラルワインの起源と理想

ナチュラルワイン運動の哲学的ルーツは、20世紀半ばのフランス、特にボジョレー地方に辿ることができます。

 

ヨーロッパの農業は、人口増加と富裕化の需要に応えるため、工業化が進むにつれ、合成肥料、殺菌剤、殺虫剤の広範な使用、そしてワイナリーにおける過度な操作が、その悪影響を及ぼし始めました。大量生産に大きく依存していたボジョレーでは、工業化による環境的および品質的な影響が特に顕著になりました。

 

化学者であり醸造家でもあるJules Chauvetは、しばしば自然派ワインのゴッドファーザーと称えられ、自然発酵、最小限の硫黄使用、そしてブドウ畑を支える微生物への深い敬意を提唱しました。彼のアイディアは、Marcel LapierreやJean Foillardを含む新世代のブドウ栽培家たちにインスピレーションを与え、純粋なワインは本物であるだけでなく、エレガントで熟成に耐えうるものであることを証明しました。

 

1990年代から2000年代初頭にかけて、ロワール渓谷や南フランスの小規模生産者たちが次々とこの運動に加わりました。ワイン醸造の工業化に不満を抱いた彼らは、高得点を追い求めるために過剰抽出され、オーク樽を多用した「パーカー化」の時代に反旗を翻しました。彼らにとって、自然派ワインは単なる製品ではなく、倫理的かつ美的なスタンスでした。それは、自然を信頼し、不完全さを受け入れ、偉大なワインには介入が必要だという考えを拒絶することを意味していました。

 

本質的に、ナチュラルワインは、ワインを操作するのをやめて、ワインが自らを表現するようにしたら何が起こるのか?という、シンプルでありながらも過激な実験である抗議から始まりました。

 

2000年代後半には、このムーブメントはフランスの田舎を飛び出し、都市部で新たな活況を呈しました。パリがその中心地となり、Le BaratinやLe Verre Voléといったバーでは、形式に飽き飽きした若い世代の酒飲みたちに、濁りのある赤ワインやファンキーなペットナットが注がれました。そこから、ニューヨーク、ロンドン、コペンハーゲン、東京、ベルリンへと広がり、食、アート、デザインが文化的アイデンティティの中にシームレスに溶け合う都市へと広がりました。

 

ナチュラルワインは際立っており、その違いは市場価値がありました。ラベルは手描きで芸術的、色彩は予測不可能で、味わいは賛否両論でした。ナチュラルワインを飲むことは、グラスの中のワインだけを味わうのではなく、帰属意識を持つことを意味していました。それは好奇心、開放性、そして既存の権威に対する反抗を象徴していました。

 

ソーシャルメディア、特にインスタグラムは、このメッセージをさらに増幅させました。インスタグラムで220万件以上の投稿数を記録したハッシュタグ「#naturalwine」は、洗練されたワインよりも本物を重視するインポーター、ソムリエ、そして愛飲家をつなぐ文化的通貨となりました。RAW WineやThe Real Wine Fairといったフェスティバルには数千人が集まり、ソムリエからインフルエンサーへと転身した人々が、デジタルユーザーにとってナチュラルワインを身近なものにしました。

 

需要が高まるにつれ、小売店やレストランも追随しました。ワインリストは、地域カテゴリー(ボルドー、ブルゴーニュ)からスタイルカテゴリー(スキンコンタクト、亜硫酸無添加、ペットナット)へと移行しました。クラフトビールやサードウェーブコーヒーで育った新世代は、ナチュラルワインにも職人技の魅力、つまり小規模生産者、ロマンス、そして何よりも物語を見出しました。

 

2010年代半ばまでに、ナチュラルワインはもはやマイナーな珍品ではなく、文化的な力を持つ存在となっていました。

 

反発:欠点、教義、分裂

人気が出たどんなムーブメントにも言えることですが、反発は避けられませんでした。伝統的なワインメーカーや評論家たちは、自然派ワインが欠点を美点に変えていると非難しました。かつてはテイスティングノートから排除されていた欠点――揮発酸、ブレタノマイセス、ネズミ臭――が、突如として再び一般的になり、称賛されるようになりました。これらはもはや欠点ではなく、本物の証として見られるようになり、品質をめぐる激しい議論の火種となりました。

 

私にとって問題だったのは、ナチュラルワインそのものではなく、それを取り巻く独断的な考え方でした。今日でも、ナチュラルワインは従来のワインよりも健康的な代替品として宣伝されることがよくあります。少数ながらも声高な支持者たちは、「ナチュラル」を道徳的な優位性として扱い、従来のワイン生産者を工業的、人工的、あるいは「偽物」と一蹴しました。一方、消費者は暗闇に取り残されていました。「ナチュラル」という言葉には法的定義がなく、一貫した意味もなかったのです。

 

ナチュラルワイン運動の中にも、すぐに分裂が起こりました。硫黄の量はどの程度まで許容されるのか?風味を変えなければ濾過は許されるのか?「ナチュラル」とは、農法、発酵、それともその両方を指すのか?こうした未解決の疑問は、ある根本的なパラドックスを浮き彫りにしました。それは、透明性と真正性を追求する運動でありながら、いかなる形態の構造や規制にも抵抗する運動だったのです。

 

私はこの緊張関係を、2016年にFrank Cornelissenという、シチリア島で最も著名な自然派ワイン推進者の一人を訪ねた際に思い出しました。驚いたことに、彼はワインをプラスチック製コルクで封をし始めていたのです。私はこれを皮肉だと感じました。ワイン醸造工程におけるあらゆる人工的な介入を拒否しながら、「自然派」ワインのボトルを人工的な栓で閉じるなんて、一体どういうことなのでしょうか。

 

ブラインドテイスティングでは、多くの自然派ワインの産地を特定するのが難しいことがよくありました。驚くほど似たような味に仕上がってしまうからです。私にとって、これは自然派ワイン運動の最大の矛盾点の一つです。自然派ワインは「加工」が少ないとされているにもかかわらず、近隣のワインに比べて土地の特質があまり感じられないことがよくあります。近隣のワインは、より意図的に手を加えながらも、イデオロギーよりもテロワールを強調することを目指しているかもしれません。

 

メディアは二極化を助長しました。記事は、ナチュラルワインを革命と称賛する一方で、ヒップスターの気取りだと一蹴する記事も相次ぎました。2017年、エコノミスト誌は「ヒップスターの安物ワイン ― 『ナチュラル』ワインブームの裏には何が? 若々しい反骨精神と疑似科学の匂い」という見出しを掲げました。こうした騒々しさのせいで、バランスの取れた意見が聞き入れられにくくなったのです。

 

しかし、あらゆる批判にもかかわらず、一つだけ否定できないことがありました。それは、ナチュラルワインが業界に自省を迫ったということです。最も手厳しい批判者でさえ、ナチュラルワインが業界の現状維持を揺るがし、農業、発酵、そして風味に関する本質的な議論を再燃させたことを認めました。

 

ナチュラルワインの主流化

2010年代後半までに、自然派ワインの革命の炎は冷めました。それは、部分的には成功したからです。

 

「自然派スタイル」のワインは、Whole Foodsのような大手小売店の棚や、さらには主流のスーパーマーケットにも至る所に現れ始めました。かつて濁ったワインに鼻を高くしていたレストランは、今やそれをボルドーやバローロと並べて誇らしげにリストアップしています。シャンパーニュからカリフォルニアに至るまで、世界で最も尊敬される生産者の一部は、密かにその哲学の一部を採用しました。天然酵母での発酵、硫黄の削減、そしてより軽い抽出を好むようになったのです。

 

要するに、自然派ワインの美学が主流になったのです。これは、皮肉なことに、決して目標ではありませんでした。

 

同時に、用語も曖昧になり始めました。低介入(low-intervention)、持続可能(sustainable)、誠実(honest)、さらにはクリーンワイン(clean wine)といった新しいラベルは、「ナチュラル」という言葉のイデオロギー的な重荷を避けながら、同じ精神を捉えようとしました。かつてこのムーブメントを軽視していた生産者たちは、こっそりと実験を始め、初期の先駆者たちはアイデンティティの危機に直面しました。文化が追いついてきた時、どうやってカウンターカルチャーであり続けるのか?

 

この主流化は単なる商業的なものではなく、文化的なものでした。自然派ワインは、人々がワインについて語る方法を変えました。若い世代の消費者、特にミレニアル世代とZ世代は、格式の高いアペラシオンやパーカーポイントにそれほど関心がありません。彼らは環境への影響、透明性、そして真正性を重視しています。

 

ナチュラルワインはもはや急進的な行為ではないかもしれませんが、そのDNAは今や現代のワイン界の血管を流れています。

 

ナチュラルワインが変えたもの

たとえナチュラルワインが衝撃的な価値をいくらか失ったとしても、ワインの世界への影響は否定できるものではありません。

 

  1. 農法:有機栽培とビオディナミ農法によるブドウ栽培は世界中で爆発的に増加しています。ボルドーやリオハなど、かつて有機栽培は非現実的だと軽視されていた地域でも 、今では広く普及しています。認証機関も活発に活動し、持続可能性は現代のブドウ栽培の中心的な柱となっています。

 

  1. ワイン造りの哲学:「最小限の介入」が主流となり、多くの生産者が添加物の使用を減らし、硫黄含有量を下げ、自然発酵を採用しています。純粋さとテクスチャーを高める手段として、ステンレス、アンフォラ、コンクリート製の卵型タンクなどがオーク樽に加わり、あるいはオーク樽に取って代わることもあります。

 

  1. ストーリーテリング:今日の消費者はストーリーを期待しています。ブドウがどこで栽培され、どのように栽培され、ボトルに何が入っているのかを知りたがります。しかし、真実は往々にして複雑であり、複雑さが効果的なマーケティングにつながることは稀です。結局のところ、最も重要なのは、ストーリーが本物らしく、魅力的で、信じられるものであることです。

 

  1. ステータスではなく文化:ナチュラルワインは、ワイン鑑賞を民主化しました。もはやソムリエの資格や多額の予算は必要なくなり、飲酒は階層構造ではなく、好奇心とコミュニティーを重視するようになりました。ロンドンのNoble RotやコペンハーゲンのPompetteといっ​​たバーは、本格的なワインも楽しめること、そして専門知識に気取りは不要であることを証明しました。

 

  1. 美的・感情的な変化:ナチュラルワインは、飲み手に完璧さよりも生命力を大切にすることを教えました。ワインは濁っていても、生きていて、予測不可能なこともあることを受け入れるように。ワインがどうあるべきかだけでなく、ワインのあり方に対する感覚を広げたのです。

 

つまり、たとえナチュラルワインを飲んだことがなくても、あなたはナチュラルワインが創造するのを助けたワインの世界に生きているのです。

 

それはまだ「存在する」のか?

ナチュラルワインはもはやニッチな反逆ではなく、世界のワインエコシステムにおいて確立された一部となっています。過激なレトリックは和らぎ、当初の理念の純粋さも薄れつつあります。しかし、手間をかけず職人技でワイン造りを行うという核心原則は今も健在です。産業標準化への抗議として始まったものが、業界全体における真正性のより広範な規範へと進化を遂げました。

 

今日、真剣な飲酒家や生産者で、自然派ワイン運動の中心的な価値観、すなわち自然への敬意、最小限の操作、透明性を拒否する人はほとんどいないでしょう。また、亜硫酸塩は敵ではなく、賢明に活用できるツールであることも分かってきました。ドイツのモーゼルのような伝統的な産地でさえ、多くの従来型ワイン生産者が、安定性と純度のバランスを取るために、ひそかにSO2レベルを下げています。

 

今こそ、ポストナチュラルの時代、つまり再生型農業や有機農業、そしてイデオロギーではなく知識に基づいた低介入のワイン醸造を中心とする時代に入るべきだと私は考えています。ワインメーカーは、先駆者たちの教訓を活かし、自然主義の教義や過度な操作に陥ることなく、健全なブドウから本物のワインを造ることができるのです。

 

「ナチュラル」という言葉もそろそろ捨て去るべき時なのかもしれません。強力なマーケティングスローガンかもしれませんが、誠実なものではありません。ワインは自然のみの産物ではありません。常に人の手、意図、そして創造性によって形作られてきたのです。

 

結局のところ、ワインを本当に特別なものにしているのは、人間のタッチなのです。

 

 

引用元:The Truth About Natural Wine

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