ドメニコ・クレリコ氏が語るモダン・バローロ35年の変遷 (営業 青山 マルコ)

ドメニコ・クレリコ氏が語るモダン・バローロ35年の変遷 (営業 青山 マルコ)

皆さん、こんにちは。フィラディスイタリア担当の青山です。 今回はフィラディスイタリアワインの看板ワイナリー ドメニコ・クレリコ氏の来日セミナーの内容をレポートさせて頂きます。


意外ではありますが、実は今回が初来日だったドメニコ氏。今まで本人から語られることのなかった『1980年代のモダン・バローロの誕生から現在の彼のワイン造り』と、そこから伝わってくる一環した彼のワイン造りへの哲学を、セミナーに参加出来なかった多くの方にお伝えしたいと強く思っています。

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伝統を打ち破る

1976年に父親から家業である農家を継いだことが、ドメニコをワイン造りに向かわせる第一歩でした。もともと彼が生まれ育ったランゲ地方はピエンモンテの中でも貧しい地域で、彼の家も細々と農作物を育て家畜を飼って生計を立てる農家でした。しかし彼は家業を引き継いだ際、このまま父親と同じように豚や鶏を飼って生計を立てるより、自身がとても興味があったワイン造りに挑戦しようと決意したのです。彼はその時すでにピエモンテの、ロエロの、そしてランゲの土地の可能性を強く信じ、今までにないワイン造りへの情熱に燃えていたのです。こうしてドメニコ・クレリコのワイン造りがゼロからスタートしたのです。

彼がワインを造るにあたって真っ先に掲げたコンセプトは、『クオリティーの高いワインを造ること』です。

当時のイタリアでは、人々は伝統に則った宗教的な理由から、自然の恵みひいては神が与えてくれたものを代々享受し、感謝しながら生活してきました。もちろんそれはワイン造りにおいても同じで、樹になったブドウの実全てを大切に収穫しワイン造りをするのが当たり前でした。樹になるブドウ全て??もうお分かりかと思いますが、出来上がるワインのクオリティー、それは当然…。このような宗教的背景に加え、彼らは基本的に貧しい農夫たちなので、少しでも収入を増やすために収穫量を多くすることに重点を置いてブドウを栽培していたのです。

しかしドメニコが目指したのはあくまでも『ワインのクオリティー』です。そう、彼はこの地方で初めて“グリーンハーベスト”を試みたのです。神からの恵みを間引きするという当時のタブーを打ち破ったのです。伝統に反した手法を取り入れたドメニコ・クレリコが『モダン派』と呼ばれる所以がここにあります。このグリーンハーベストに始まり、ここから現在に至るまで彼のワイン造りにおいて施される試みの全ては『クオリティーの追求』のためだということを再度申し上げておきたいと思います。

 

バリックとロータリーファーメンターがもたらしたもの

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彼のワイン造りの変革の中でグリーンハーベストの次の非常に大きな試みと言えば、バリックの採用です。彼は、ネッビオーロの熟成を経たフィネスはピノ・ノワールのそれに通じるものがあると信じ、ブルゴーニュのワイン造りを自分の手本としていました。当時出回っていたバローロはリリースしてから10年以上経たないと飲めないのが当たり前でしたが、彼はリリース直後から楽しめ、それでいながら20年後にも飲めるワイン造り目指していました。それまでは伝統の大樽で仕込んでいましたが、ブルゴーニュのフィネスを求めて、1981年に同志エリオ・アルターレと共にブルゴーニュに足を運び、トラックに乗せられるだけのバリック19個を持ち帰りました。

そして初めてバリックを試みたのが1982ヴィンテージ。結果は…。バリックで仕込んだワイン全てを捨てることになりました。何が起こったのでしょうか?彼は知らなかったのです。ワインをバリックに詰めた後2、3週間毎にワインを継ぎ足さなければならないことを。ワインが蒸発して目減りし、酸化するということを。それも仕方ありません。ピエモンテには誰もバリックの使い方を教えてくれる人がいなかったのですから。醸造学校の先生さえバリックの使い方なんて知らない時代です。

ですが、もちろん彼はそこで諦めてこれまでのやり方に戻るなどということはしません。より良いものを造る、クオリティーを追求するという彼の哲学が揺らぐことはなかったのです。どうしてダメだったのかを考え、再度ブルゴーニュに行ってバリック使いについてありとあらゆる情報を集め、次の 1983 ヴィンテージを仕込んだのです。結果、そのワイン造りは大成功をおさめ、そのワインは『Arte(アルテ)』と名付けられました。この名前は“Art(彼の芸術家的な感覚)”と“ネッビオーロの新しい醸造方法”というふたつの意味が込められています。

余談ですが、彼がワインを捨てることになった 1982 年と言えばピエモンテの1980 年代では数少ないグレートヴィンテージ。実は相当悲しかったと彼はこの来日中に漏らしていました。

彼がバリックの導入に成功したことで、これまで 10 年、15 年寝かしてやっと飲めるようになるバローロが、より早く楽しんで貰えるようになり、さらにもちろん長い熟成を経てその真価を発揮する新しいバローロの方向性が見出されることになります。

その後バリックがバローロの中でも彼と志をともにする生産者達によって次々導入されたいう事実が、彼がこの地のワイン造りに与えた影響の大きさを物語っていると言えるでしょう。

 

さて、時は 1990 年代初頭。彼は次の挑戦に取り組みます。ロータリーファーメンターの導入です。

導入の理由はふたつ。

・当時、温度管理が出来る撹拌装置がほとんどなかった。

・畑仕事がいちばん重要な仕事と位置付けるドメニコは、マセラシオンに人手を取られたくなかった。

結果、このロータリーファーメンターで一定の温度と短い期間でマセラシオンを行うことにより、これまでよりもタンニンが柔らかくエキスがぐっと抽出された力強く飲みやすいワインを造ることが可能となったのです。ちなみに最初にロータリーファーメンターを導入したのはパオロ・スカヴィーノだったそうです。このロータリーファーメンターは、元々スイスでチョコレートを製造する為にあった物をワイン用に改良してもたらされたと今回教えてもらいました。

グリーンハーベスト、バリック、ロータリーファーメンターの採用という大きな 3 つの革新的な要素を経て、ドメニコ・クレリコ、エリオ・アルターレなど志を同じくする生産者の努力から生まれたバローロは、これまでのものとは一線を画すスタイルとなりました。この早いうちから楽しめる濃縮した力強いバローロは、じわじわと世の中に認知されるようになるのです。加えて 1995年から 2001年までバローロは7年連続のグレート・ヴィンテージに恵まれたこともあり、マーケットも競ってそれを求めるようになっていきました。そして彼らはより高みを目指し、より抽出が強く、よりバリックの効いたワインを世に送り出すこととなったのです。ここにモダン・バローロとバローロ・ボーイズの存在が確立されたのです。

 

そして気付いたこと

そして 2004 年のある時、いつものように数人でディナーに出かけたドメニコ。食事の際はワインを 1 人当たり 1 本飲むのが常の彼ら、のはずが…何とその日は 4 人で 1 本さえも飲むことが出来ませんでした。「なぜなのか?」残ったワインを持ち帰って彼は考えます。そして気付くのです。というか、うすうす彼は気付いていました。「この偉大なワイン、香りはすばらしい。でも濃過ぎる。樽が強過ぎる。これは本来のすばらしいネッビオーロのキャラクターを隠してしまっていないだろうか。やり過ぎたのではないか…」。

そして 2005年より新樽比率をこれまでの100%から 80%に下げることにしました。1990年代からずっと新樽100%にこだわり続けてきた彼。そのワインはワイン・アドヴォケイト等がこぞって高得点をつけ、黙っていても売れて行くのにそのスタイルを変えることを決めたのです。なぜなら彼はあくまでも前に進む人だからです。失敗を素直に受け入れ、そこで得た経験を次に繋げていく事が出来る人物なのです。

しかし出来上がった 2005 ヴィンテージを飲んだ彼は、このワインに満足しませんでした。「まだ樽が強い…」。彼はまた考えるのです。「なぜブルゴーニュのワインは新樽 100%でも樽が浮いてこないのか」。そのまま再度、ブルゴーニュへ向かい、そして次々ワインを樽からティスティングして、いろいろな人と話しをしてまわり、あることに気付きました。それは“オークの質が違う”ということです。これまで自分たちが使っていた樽は同じメーカーでもイタリア向けに販売されていたもので、ブルゴーニュではフランス国内専用のオーク樽が使われていました。これが決定的違いだったのです。イタリア向けのオークの材質はより樽香がつきやすいものでしたが、ブルゴーニュで使われているものはそのような要素がなかったのです。よっていくら新樽比率を下げても、樽香が浮いてしまうことになったのです。

かくしてドメニコはブルゴーニュの著名生産者の手助けもあり、ブルゴーニュのみで使用されているバリックを手に入れ、イタリア向けのバリックと、実際ブルゴーニュで使用されているバリックの熟成の違いを実験しました。結果はドメニコが予想していた通り、ブルゴーニュで使用されているバリックを用いることにより、今までの様に樽香が浮いたものにはならなかったのです。彼はようやく自分が満足できるバリックと出会えたのです。しかし、ブルゴーニュで使用されているバリックを全て使用してバローロを生産するには3年の月日を要しました。それは、ブルゴーニュで代々数百年にも渡って消費されていたバリックではイタリアに輸出する量を賄えない状況があったからです。2008 年ヴィンテージより、ようやく自分が納得のいくバリックのみでバローロの生産が出来るようになりました。機会があれば是非この 2005 年と 2008 年を飲み比べて頂きたいと思います。どちらもすばらしいワインですが歴然とその差に気付かれることは間違いありません。

 

良いブドウありき

さてこれまでは、ドメニコ・クレリコの技術的進化を中心に話をしてきました。彼のワインはさまざまなメディアで取り上げられていますが、その際、醸造テクニックについての話がクローズアップされることが多いように思います。しかしながら、来日した彼が 3 日間しきりに言っていたのは、『ワイン造りの 90%は畑仕事で決まる』ということです。

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どんな醸造の新しい試みも、いいブドウなしには何の意味もないと彼は思っているのです。それ故彼は、日々畑の様子を見に行き、畑を毎日世話しなければいけない自分の子供と同じように手を掛け、ブドウの樹1本 1 本の性格まで知り尽くすほど畑仕事に没頭しています。そう、彼の生活の中心は現在も尚、日々の畑仕事にあるのです。彼は現在 21 ヘクタールの畑を所有していますが、ドルチェット、バルベーラ、ネッビオーロ、それぞれの品種に最適な区画のみを選んで買い足してきました。最適な場所で最適な品種の最高のブドウの育てるのが彼の一貫した考え。3 品種とも同じように手を掛けています。決してネッビオーロにいちばん手間を掛けている訳ではありません。そうして大事に大事に育てたブドウは、収穫が終わると必ず自分がトラクターに載せてカンティーナまで運びます。これは今でも他の誰にもやらせないそうです。「この瞬間が自分にとって 1年でいちばんの喜びの時だから」というのがその理由です。

 

この来日中に彼から聞いた興味深いエピソードがあります。

とある遠方に偉大な白ワインの造り手がいました。ドメニコは同志とともにその造り手に教えを請うために出かけて行きました。1 ヶ月前にアポイントメントを入れ、8 日前に改めて確認し、昼の 12 時という約束を取付けました。約束の当日、12 時きっかりに呼び鈴を鳴らしてもその家の女性から「お昼食べてるんだから、1 時間半後にして」とにべもなく断れ、仕方なく再度 13 時半ピッタリに呼び鈴を鳴らしましたが、対応に出てきた今度は大柄の男性に「お前たちはヒマなのか?」と聞かれました。

ドメニコ達がその真意を図りかねていると彼はさらに言いました。「オレの畑はオレを必要としている。お前たちの畑はお前たちを必要としているんだ」。大柄の男性はそのまま立ち去ろうとし、最後に「今夜 8 時からなら時間がある」と言い残し畑に向かって行ってしまったのです。せっかく遠くまで会いに来たのだからと、ドメニコたちはめげずに夜 8 時に再々訪。そこから延々と夜中の 3 時まで畑仕事について語り合い、ドメニコ達は改めて彼に畑仕事がどれだけ大切かということを学び、その後の自身の仕事の大きな影響を与えたそうです。その当人とは、数年前に不慮の事故でなくなったあのディディエ・ダグノー氏です。

これまでお話したように、彼はワイン造りを始めてからの 35 年間、常に明日を見て仕事をしてきました。これこそが彼の哲学です。失敗してもいいのです。失敗から学んだことを明日に活かすことが大切だと彼は常に言っています。その言葉通りにずっとクオリティーを追求し、挑戦し続けてきました。

 

伝統派モダン派の今

そして現在、モダン派と呼ばれる彼が伝統派の生産者たちといかにお互いを尊重し合ってワイン造りをしているかについてお話したいと思います。

まず彼が始めたグリーンハーベストは、現在この地域の多くの生産者が行っています。それまで成熟の遅いネッビオーロの収穫時期といえば 11 月中旬ごろでしたが、その時期この地に特有の“ネッビア”という霧が濃く雨が多い気候と重なることとなり生産者にとってはリスクが大きかったのです。しかしグリーンハーベストを行うことにより、収穫時期は10月上旬と1ヶ月半も早まり、この地のブドウ栽培が底上げされたことは彼が与えた大きな功績のひとつと言えるでしょう。

その一方で、この 35 年間ずっと新しい試みに調整し続けてきた彼は今、伝統に立ち返りつつもあります。マセラシオンの温度を以前よりも下げ、以前は 6 日~ 7 日ぐらいで終えていたマセラシオンの期間を 20 ~ 30 日と長めにし、よりエレガントで伸びと深みのあるワイン造りを行っています。先人達が経験から得た多くの知恵と、自分自身の 35 年間の経験を組み合わせて最高のワイン造りを目指しているのです。

また彼は、巨匠アンジェロ・ガヤ氏、アルド・コンテルノ氏、ブルーノ・ジャコーザ氏に対し、ランゲのワインを世界に向けて発信することに尽力した功労者として、心から感謝し敬っています。「もはや伝統派、モダン派というムーブメントはないよ」とドメニコは言います。この地の志の高い生産者が、ピエモンテの、ランゲの、バローロの、モンフォルテの、それぞれのクリュのアイデンティティを素直に感じられるピュアなワイン造りを目指す『ピュアリスト』としてカテゴライズされているのが今日現在です。

 

最後に私、青山が来日に際し3日間ドメニコの通訳をして感じたことを少しお話させて頂きます。これまで申し上げて来たように、畑作業をいちばん大切にし、毎日畑に出向くことをポリシーとしているドメニコが今回初めて日本に来たということ、5年前に患った病を加味すると相当な覚悟を持ってモンフォルテを離れたのだと感じました。それはようやくある程度ドメニコが納得できるワインが出来つつあるからなのか、次の世代にバトンを渡す時が来たと感じたからのか、余り長く話をすることが出来なくなった彼の口から真相を聞くことは出来ませんでした。

偉大な生産者とは、常に周りに感謝し、決しておごらないのだと改めて実感しました。

CTA-IMAGE ワイン通販Firadis WINE CLUBは、全国のレストランやワインショップを顧客とするワイン専門商社株式会社フィラディスによるワイン直販ショップです。 これまで日本国内10,000件を超える飲食店様・販売店様にワインをお届けして参りました。 主なお取引先は洋風専門料理業態のお店様で、フランス料理店2,000店以上、イタリア料理店約1,800店と、ワインを数多く取り扱うお店様からの強い信頼を誇っています。 ミシュラン3つ星・2つ星を獲得されているレストラン様のなんと70%以上がフィラディスからのワイン仕入れご実績があり、その品質の高さはプロフェッショナルソムリエからもお墨付きを戴いています。 是非、プロ品質のワインをご自宅でお手軽にお楽しみください!