Moet & Chandon/Dom Perignon(モエ・エ・シャンドン/ドン・ペリニョン)
Moet & Chandon/Dom Perignon HP
世界で1番有名なシャンパーニュメゾン、それがモエ・エ・シャンドンである。
ルイ・ヴィトンやディオールといった高級ブランドを率いるLVMHの酒類部門、MHD(モエ・ヘネシー・ディアジオ)の中核を担っている。
現在は世界150ヶ国で販売されており、あるホテル内にはモエ専用の自動販売機すら存在している。
設立から270年の伝統を守りながらも、あらゆる革新的な技術や方法を取り入れて常にシャンパン・ビジネスの先頭を走り続けている。
目次
■歴史
1743年、クロード・モエがエペルネにシャンパン会社を設立したところから歴史は始まる。
元々ワインの製造卸を営む一族であったクロードは、18世紀フランス、ロココ様式が流行する華やかな時代に必ずシャンパンは流行するに違いないと確信していた。
その後彼の孫であるジャン・レミ・モエの代になって、フランス中にモエ社の名は広まることになる。
ジャン・レミは優れたワインメーカーというより、優れた営業マンだった。
フランス革命まっただ中、その中心人物であるナポレオンとの親交を深める。
彼のためエペルネに離宮を建設し、東欧遠征のたびに戦勝酒としてシャンパンをふるまうことで着実にモエ社をPRしていった。
(モエ・エ・シャンドンを代表するシャンパン「モエ アンペリアル」の「アンペリアル(皇帝)」は、皇帝ナポレオン1世に由来している)
ナポレオン軍が勝利したオーストリアやポーランドといった国々にはどこでも販売員が赴き、シャンパンを献上し販路を確保した。
大敗した戦さえ、彼はしたたかに利用した。
必ず戻ってくると確信し、占領したロシア兵にさえ好きなだけシャンパンを持ち帰らせていた。
そしてジャン・レミの読み通りロシアはイギリスに次ぐシャンパンの一大輸出国となる。
その頃、ジャン・レミの娘であるヴィクトールとピエール・ガブリエル・シャンドンが結婚することで、現在の社名であるモエ・エ・シャンドンが誕生。
ヨーロッパやアメリカをはじめとした世界市場を開拓していき、1900年には海外市場の16%を占めるシャンパーニュの最大土地所有者にまで成長した。
1962年、モエ・エ・シャンドンはパリの株式市場に上場した最初のシャンパンハウスとなった。
1971年にはコニャック製造会社のヘネシーと合併して「モエ ヘネシー ホールディング カンパニー」に。
世界最古のシャンパーニュメゾン、ルイナールとクリスチャン・ディオールを買収し1987年にルイ・ヴィトングループと合併したことで、「LVMH モエ ヘネシー ルイ ヴィトン」と名を連ね、現在に至るまでその発展は留まることを知らない。
■モエを愛する人達
モエはフランス国王の寵妃、ポンパドゥール夫人が最も愛したシャンパンであり、ナポレオン一世が祝勝杯にしたシャンパンであり、ワーグナーが初演を失敗した際に自分を慰めるために飲んだシャンパンでもある。
いつの時代だってモエは偉大な人物のかたわらにあった。
そして多くの”はじめて”の瞬間を見届けるシャンパンでもあった。
現在もすっかりおなじみになった表彰台でのシャンパン・ファイトや、ホストクラブを煌びやかに彩るシャンパン・タワー、サーベルの背でボトルの口を切り船をシャンパンで「洗礼」する進水式。
その始まりは全てモエ・エ・シャンドンだった。
今日、6秒に1回世界のどこかでモエが抜栓されていると言われている。
今もどこかでなにかのはじめてを見つめているのだろうか。
■広大なブドウ畑
モエ・エ・シャンドン社は現在、総栽培面積1,190haを保有するシャンパーニュ地方最大のブドウ畑所有者。
その50%はグラン・クリュ、そして25%はプルミエ・クリュに格付けされている。
その広大な畑から上質なブドウだけを選別し、毎年安定した『モエの味』を均一に保っている。
■ドン・ペリニョン
1935年、モエ・エ・シャンドン社の最初のプレステージキュベであるドン・ペリニョンが、イギリスとアメリカで発表され大反響を呼び起こした。
現在でも高級シャンパンの代名詞として知らない人はいないのではないだろうか。
そのドン・ペリニョン、実はモエ社が開発したものではなく買収されたワインの1つ、というより買収された修道院で造っていたワインなのである。
世界的な大不況が続いていた1900年前半、モエ社もその煽りを受けて破竹の勢いで進んでいた急成長にも陰りが見え始めていた。
そんな中当時社長を務めていたド・ヴォギュエ氏は、すでに購入していたオーヴィレーヌ修道院で造られていたシャンパンに目をつける。
それがドン・ペリニョンだった。
ではドン・ペリニョンの歴史をたどろう。
そもそもドン・ペリニョンとはオーヴィレーヌ修道院の醸造責任者であったピエール・ペリニョンの名前から取られている。
彼は黒ブドウから透明な白ワインを作る技術を完成させたり、糖分を保持しながら二次発酵の誘発を高める方法を提唱したとされる、まさにシャンパンのパイオニア的存在。
現在は針金とミュズレでコルクを固定しているが、それが登場する前は麻ひもに油を浸してコルクを留めていた。
この方法を発明したのもピエール・ペリニョンである。
完璧主義の彼は1715年、その生涯を終えるまで改良を重ね、現在のシャンパンの原型を作り上げた。
その偉大な功績を称え彼は『シャンパンの父』と呼ばれている。
彼の死後しばらくして、モエ・エ・シャンドン社にオーヴィレーヌ修道院とブドウ畑を買収されるが、当時はまだだれもこのシャンパンに注目をしていなかった。
そして200年の時を経て、モエ・エ・シャンドン社の切り札『ドン・ペリニョン』が(1921年ファーストヴィンテージ)として華々しく表舞台に登場したのだった。
■P2、P3
ドン・ペリニヨンは3度の飲み頃を迎えると言われ、同一ヴィンテージのものを3回リリースする。
最初のリリースは通常約8年の熟成、2番目は約16年、3番目は約24年。
2番目は「P2」、そして3番目は「P3」。
”P”は『飲み頃』を意味する『plenitude(プレニチュード)』から来ており、最高のヴィンテージを、最高のタイミングで味わうというのがコンセプト。
P2は最初のリリースからデゴルジュマンまでの期間を更に倍の8年、つまり計16年以上の期間を要する。
デコルジュマンまでは瓶内の澱が旨味へとかわり、シャンパーニュをより複雑な味わいへと熟成させるが、酸化による熟成ではないためフレッシュ感も共存する。
生産本数は約300万本と言われているが、この数量を安定して造れているのはさすがとしか言いようがない。
価格もその分高価になるがシャンパン愛好家の間や、お高い夜のお店で人気。
■最初にスパークリングワインを造ったのは?
よくピエール・ペリニョンがスパークリングワインを最初に発明したという話しを耳にするが、実はそれは間違った情報である。
1697年、ピエール・ペリニョンによって発明されたと言われている30年前、1662年に英国の科学者クリストファー・メレットによってスパークリングワインについて記された論文が発表されている。
(”how to put the fizz into sparkling wine”)
スパークリングワインは普通のワインと違ってガス圧が高くなるため、フランスで一般的に使われていたガラス瓶だと爆発し大ケガをする恐れがあり、偶然の産物であった瓶内二次発酵は彼らにとって恐怖でしかなかった。
しかしイギリスのボトルは元々分厚く、爆発する可能性ははるかに低かったという。
そしてピエール・ペリニョンがイギリスのように厚く重たいガラス瓶を造り、フランスでのスパークリングワインの形が出来上がったのだった。
確かに彼は、シャンパーニュのスティルワインの品質と名声を向上させるためにたゆまぬ努力をしたが、スパークリングワインを発明したわけでも、シャンパンを最初に作ったわけでもない。
どちらかというと、欠陥と見なされワインボトルを壊す可能性が最も高い二次発酵を防ぐために一生懸命働き、結果としてシャンパンが出来上がったのである。
どんな世界でもトップを勝ち取るよりも、トップで居続けることが難しい。
だけど「Every second, somewhere in the world, the cork of a Moët & Chandon bottle pops.(モエ・エ・シャンドンを飲むこと、それはシャンパンを知ること。)」
これだけ自信たっぷりに言われてしまうと、さすがとしか言いようがない。
これからの時代もその誇りを胸に、シャンパーニュ界のアンぺリアルであり続けてほしい。
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