Lauren Perrier(ローラン・ペリエ)
ローラン・ペリエの物語は、前当主ベルナール・ドゥ・ノナンクールという男の物語でもある。
掴んだ栄光が戦争によって崩れ去るも、復興に尽力し現在ではモエ&シャンドンおよびヴーヴ・クリコに次ぐ世界第3位の販売量を誇るシャンパンブランドにまで成長した。
その陰には経営者でありながらも自ら畑に赴き、人と現場のつながりを誰よりも大切にしたベルナールの努力があった。
今でさえ英国王室御用達と華々しい肩書がついているが、実はとてもドメーヌ的な、人間臭いシャンパンなのだ。
目次
■歴史
1812年 設立
元樽職人であるアルフォンソ・ピエルにより、トゥール・シュル・マルヌ村にローラン・ペリエの前身となる一つのネゴシアンが誕生した。
ピエルの引退後会社を継いだのは、セラーマスターであったウジョーヌ・ローランと彼の妻であるマティルド エミリー・ペリエ。
会社名を2人の姓を繋げた名前に変更、ローラン・ペリエというシャンパンメゾンが生まれた。
1887年~1925年 成功と挫折
ウジョーヌ・ローランが亡くなり、残されたマティルドは懸命に働きメゾンを発展させた。
1920年には最大マーケットの一つであるイギリスへの輸出を開始し、年間5万ケースのシャンパーニュを生産するまで成長するが、第一次世界大戦によりこの成功はあっけなく崩れ去った。
さらに1925年にマティルドが亡くなると、大戦での挫折と差し迫った第二次世界大戦の勃発によりいよいよ経営が立ち行かなくなり、メゾンは厳しい局面を迎えた。
1939年~ ドゥ・ノナンクール家による復興
このような状況下でメゾンを買収したのが、未亡人マリー・ルイーズ・ランソン・ドゥ・ノナンクール。
マリー・ルイーズは、有名シャンパーニュメゾンであるランソン家の子女。
彼女はランソン社が経営していたドラモットを1927年に相続し、1939年にローラン・ペリエを買収した。
(当時、メゾンの名前はランソン・ペール・エ・フィスメゾンだったが、相続の際元の「ドラモット」に戻している)
マリー・ルイーズは会社にできる限りの投資を行い、戦争の混乱を乗り越えた。
1945年、戦争から帰った次男のベルナール・ドゥ・ノナンクールは、ランソンとドラモットで畑仕事や醸造、そして営業などシャンパンに関わる様々な仕事を4年間学び、1948年10月に母親の後を継ぎローラン・ペリエの経営の指揮を執る事となる。彼が若干28歳の時だった。
階級社会が根強く残るフランスでは、通常雇い主と使用人の間に大きな壁がある。
しかし戦争帰りで豪快で親分肌のベルナールは、弱小メゾンの社長として畑や醸造所に出て、職人と一緒に懸命に働き、8万本程度だった販売本数を700万本にまで拡大させた。
1960年 グラン・シエクルのリリース
ベルナールはブレンドこそが最高のシャンパンを生み出すファクターだと信じていた。
プレステージ・キュベといえば単一ヴィンテージで造られるのが一般的であるが、上記の観点から生まれたのが複数ヴィンテージのブレンドからなるプレスティージュキュベ、グラン・シエクルだった。
さらに17世紀初頭に手作業で作られたボトルをイメージした、丸みを帯びた特徴的なボトルが作られ1960年にリリース。
(最初のヴィンテージは1952年、1953年、1955年のブレンド)
今までのプレスティージュ・キュベの概念を覆し、目を引くこのワインは大きな反響を呼んだ。
戦時中 サロンとベルナール
ベルナールが小さい時から憧れていたシャンパンがサロンだった。
ドラモットとサロンは長屋状態で接しており、当時限られた人しか飲むことができなかったクローズドなシャンパンはベルナールの心を掴んで離さなかった。
彼が17歳の時、ドイツ軍のトラックが15台、いきなりドラモットの前の狭い道路に止まり、サロンの地下セラーに侵入してシャンパンを強奪し始めた。
これは当時ヒトラー総統の後継、芸術と美食と贅を愛するゲーリング元帥の仕掛けたことであったが、目の前で行われる強奪にベルナールは大きなショックを受けた。
この出来事をきっかけに彼は兄弟とともにフランス軍に入隊。
アルプス山中でドイツ軍と戦い、強奪されたサロンを含む数百万本のワインを取り戻すのだった。
1988年~2000年 ローラン・ペリエグループの躍進
憧れのサロンを傘下に収め、ローラン・ペリエはサロン、ドラモット、カステラーヌを含むグループ企業となった。
1950年から2000年の間にシャンパーニュ全体の需要が急上昇し、出荷量が10倍に増加している。
ローラン・ペリエもこの勢いに乗ってグループ全体で生産量を100倍に伸ばす。
そしてモエ&シャンドンおよびヴーヴクリコに次ぐ世界第3位の販売シャンパンブランドとなった。
2010年、ベルナールは90歳の末亡くなった。
現在は娘であるアレクサンドラとステファニー、そしてミッシェル・ブレール率いる経営陣が会社とベルナールの精神は引き継がれている。
ローラン・ペリエの傑出したキュベといえば何を隠そうロゼである。
一般的にロゼ・シャンパンは瓶熟成の期間が短いため生産コストが低く、高価格で売れる。
そのため安直な利益源として存在しがちなのだが、内容が伴っているものは多くない。
ロゼ・シャンパンの製造方法としてアッサンブラージュ法とセニエ法がある。
アッサンブラージュ法は「白ワインに赤ワインを少量混ぜてロゼを造る」という実にシンプル・明快・単純な製法。
この方法はシャンパーニュにだけ許された特殊なもので、多くのメゾンはアッサンブラージュ法を採用しているが、味わいのバランスを整えるのが難しい。
一方、セニエ法は黒ブドウを破砕した上で圧搾前の果汁に果皮を暫くの間浸漬(醸し=“マセラシオン”)して色素を抽出し、適度に色が付いた段階で果汁のみを取り分ける方法である。
ピノ・ノワールの優れた畑を所有するRMの多くはこのセニエ法でロゼを造るが、それは全体の数パーセントでしかない。
さらに大手メゾンでセニエ法を行うのは非常に珍しい。
同じくロゼ・シャンパンの名手であるビルカール・サルモンの6代目当主アントワーヌも「フランスでロゼ・シャンパンといえばローラン・ペリエ。ビルカール・サルモンは2番手。彼らはロゼが好きな人のためのロゼ。うちはロゼが嫌いな人のためのロゼ」と語る。
ラズベリーやチェリーのようにフレッシュな赤い果実のアロマが特徴で、非常に力強く、継ぎ目のない味わい。
ロゼ・シャンパンは高くておいしくない、と思っている方にぜひ試してみてほしい逸品。
-
前の記事
Pommery(ポメリー)
-
次の記事
Lanson(ランソン)