Salon(サロン)
世界最高峰のブラン・ド・ブランであり、世界最初のブラン・ド・ブランがこのサロンだ。
生産するキュベは1キュベのみで、この100年間で生産されたキュベはわずか41ヴィンテージ。
単一クリュ、単一品種、単一年という製法を貫くこのシャンパーニュは100年間ずっと孤高の王様であった。
目次
■歴史
1905年 夢への第1歩。ぶどう畑の購入
ウージェーヌ・エメ・サロンはメニル・シュール・オジェの東側にある小さな村で生まれた。
少年の頃、彼は醸造家がシャンパーニュを造る様を眺めるのが好きで、家族が経営する農場には取り立てて興味も持たず、いつの日か自分でもシャンパンを作りたいと夢見ていた。
商才に優れていたエメはパリで毛皮商として大成功を収める。
そして念願だったぶどう畑を1ha、メニル・シュール・オジェに購入した。
こうして彼は、個人消費用のためのシャンパーニュ製造に着手した。
1911年 初ヴィンテージ
最初、エメのシャンパンは自宅を訪れる客に提供するもので、シャンパン造りはあくまで趣味でしかなかった。
しかし彼の理想を追い求めて造られたシャンパンはメニル・シュール・オジェのシャルドネのみを使った、単一クリュ、単一品種、単一年というもっとも純粋で革新的なシャンパンだった。
それがゲストから評判となり、美食家でもあったエメはこのシャンパンの可能性に気付き市販することを決意した。
1921年 サロンの創設
毛皮商のかたわら、サロン社をメニル・シュール・オジェに興し本格的な生産を開始した。
当時、パリ最高のレストランであり重要な社交場であったレストラン、マキシム。
政治家や大富豪、一流の女優や美食家が夜な夜な集まるそこにはエメの姿もあった。
20~30年代にはマキシムのハウスシャンパンとして採用され、エメのシャンパーニュは流行最先端のスポットに置かれるようになった。
政界人をはじめとする多種多様な人々が集まるレストランで存在を示すことによって、エメはアイデンティを確立するとともに、究極の美食倶楽部である「クラブ・デ・サン」の一員となる。
当初はブリュットに加えてノン・ドサージュのキュベも造られていたらしい。
(他にもセックやアッサンブラージュしたブリュットの4キュベが造られていた)
まだやや甘口のワインが多かった時代、ドサージュをしないシャンパーニュなどもはや狂気の沙汰である。
サロンの前社長であるデュポン氏は「飲むというより一種のユーモアだったのだろう。ドサージュなしのサロンは飲めない」と語る。
1943年エメの死後、彼の妹が経営を継いだが1989年にローラン・ペリエに会社を売却。
いくら需要が高くなっても、限られた年にしか生産せず、最低でも10年の瓶内熟成を経てようやく出荷するという姿勢を貫き通しているため、その価格はうなぎのぼりで留まるところを知らない。
さらに若いうちは堅牢なミネラルに本質を隠されてしまうため、忍耐力も必要とする。
それでもだれもがサロンを欲し、サロンは王座に座り続けている。
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