Taittinger(テタンジェ)
1800年代から設立したメゾンが多い中で、テタンジェは1932年創業の割と後発のシャンパーニュ・メゾンである。
シャンパーニュだけでなくカリフォルニアワインの製造、そしてホテル業や出版業も営むため巨大で商業的なメゾンだと思われがちだが、実は代々テタンジェ家が経営する家族企業のメゾンなのだ。
創業当初から畑のクオリティにこだわり高い比率でグランクリュを所有し、トップキュベのコント・ド・シャンパーニュはグランクリュ100%で造られる素晴らしいシャンパンである。
現在メゾンはピエール=エマニュエルの娘であるヴィタリー・テタンジェが4代目のオーナーを務めており、そのエスプリは脈々と受け継がれている。
目次
■歴史
1932年 メゾンの設立
アルザス出身のフランス将校であるピエール=シャルル・テタンジェは、第一次世界大戦の渦中シャンパーニュのエペルネ近くにある小さなシャトーに駐留していた司令部に配属される。
ブドウ畑に囲まれた、寄せ木細工の美しい城にピエールは一目ぼれし、終戦後の1918年にシャトーとシャルドネとピノノワールが植えられた畑を購入。
さらに1930年代前半の経済恐慌により、複数のシャンパーニュ・メゾンが経営危機に陥る中、1734年に創立された、リュイナール社、シャノワール社とともにシャンパーニュ地方で最も古いシャンパーニュ・メゾンの1つであるフォレスト=フルノー社を買い取り、テタンジェを立ち上げる。
「より軽く、カジュアル」というヌーヴェル・キュイジーヌに対するこだわりと見識を基盤として、シャルドネの比率の高さを特徴とする独自の配合を重要視した。
1949~1955 兄弟の活躍
ピエールが亡くなった後メゾンは彼の息子である、フランソワ、ジャン、クロードの3人兄弟に引き継がれた。
長兄のフランソワは、メゾンの名をさらに広めるとともに評判を得る必要もあると考えた。
そこでまず1949年以降、フランソワはメゾンの知名度を向上し売上増加を図るため、アメリカを中心に世界各国に弟のクロードを派遣。販売ルートを確保した。
さらに自社畑の拡大に努め、1955年には主にシャルドネを栽培する110ヘクタールのぶどう畑を購入。
1960年に不慮の交通事故で亡くなるまでブランド地位向上に務めた。
1957年 世界で2番目のブラン・ド・ブラン
これまでのシャンパーニュはピノ主体の重い味わいが主流だったが、クロード・テタンジェがアメリカを旅行した時、アメリカ人がウイスキーやコニャックではなく、コカ・コーラやカクテルを飲んでいるのを見て、これからは軽い味わいのシャンパーニュが受けるようになると確信。
ワインも軽さや繊細さが受ける時代になると直感した彼は、シャルドネのみで造られたシャンパーニュを開発した。
当時、1921年にクローズドで造られていた『サロン』を除けば、一般市場向けにリリースされた最初のブラン・ド・ブランがコント・ド・シャンパーニュである。
革新的な取り組みであったもののその内容は確かなもので、初ヴィンテージ(1952年)(なんとたったの35本)からそのスタイルは確立されていた。
なぜなら、シャルドネにとって最良とされるコート・デ・ブランのグラン・クリュのみで造られていたからである。
当時、いくらラグジュアリーキュベでもグラン・クリュ100%でシャンパンを仕込むことはほとんどなく、それは大変革新的な試みだった。
各特級畑の個性が継ぎ目なく溶け合い、深みがありつつも清楚で爽快な味わいはたちまち人々を魅了した。
番外編 ジェームズ・ボンドとコント・ド・シャンパーニュ
ジェームズ・ボンドシリーズの作者イアン・フレミングは、コント・ド・シャンパーニュの愛好家だった。
1951年出版のシリーズ第一作「カジノ・ロワイヤル」の中で、ジェームズ・ボンドに「テタンジェ・ブラン・ド・ブランをくれ…有名じゃないが、世界一のシャンパーニュなんだ。」 と
言わせており、1963年の映画「ロシアから愛を込めて」 の中でジェームズ・ボンドはコント・ド・シャンパーニュのセカンドヴィンテージである1953年を飲んでいる。
『007モデル』もリリースされているようにボランジェのイメージが強いのだが、初期のジェームズ・ボンドはテタンジェがお好みだったらしい。
1960年~2006年 畑の取得
クロード・テタンジェはまた、メゾンの経営でも優れた手腕を発揮する。
1960年代初期、ランス市長も務めるジャンの後押しもあり、わずか5年間で約140haまでブドウ畑を広げた。
こうして2006年にはメゾンの所有畑は288haにまで拡大し、後発でありながらもその確かな品質でシャンパーニュ地方の中で確かな地位を築き上げた。
畑はマルヌ県内のコート・デ・ブランからヴァレ・デ・マルヌ、モンターニュ・ド・ランスまでを網羅し、シャルドネ37%、ピノ・ノワール48%、ピノ・ムニエ15%の比率で栽培されている。
1983年 テタンジェ・コレクションの誕生
フランソワの死後、会社を引き継いだのは世界を飛び回っていた弟のクロード。
「未来の世界で、巨大企業とアーティストしか居場所がないとしたら、シャンパーニュ・テタンジェ社は、どちらを選ぶか?」と、いう問いにクロード・テタンジェは迷うことなく「アーティスト!」と答える。
様々なアーティストと交流が深く美と芸術を愛した彼は、1983年テタンジェ・コレクションを誕生させる。
現代アートの分野で才能あるアーティスト達がボトルをデザインし、それは単なる容器ではなく芸術を発表する場となった。
初回を飾ったのは、ハンガリー人アーティスト、ヴァザルリ。
2020年現在までに発表されたテタンジェ・コレクションは13ヴィンテージ。
個性的で美しいこのシャンパーニュはファンの多いコレクターズアイテムとなっている。
2006年 買収、買収
好調なテタンジェは1973年にスパークリングワインのメーカー、1975年にホテル・チェーンを相次いで買収。
1990年にはナパバレーのワイン農園、ドメーヌ・カルロスを買収してカリフォルニアのワイン産業にも進出した。
しかし建設業や出版業まで含む急激な事業拡大は、企業乗っ取りの的となる危険な道でもあった。
ついに2006年、テタンジェはフランスのクレディ・アグリコル銀行が率いる投資グループに買収される。
ところが2008年に、クロードの甥であるピエール・エマニュエル・テタンジェがメゾンを買い戻した。
「家族の名前をボトルにつけるということは、どんな瞬間においても、重大な責任と義務を伴う。」
たった2年間でメゾンを買い戻すという荒行は決して生半可な覚悟で叶いはしないだろう。
祖父から引き継がれた情熱とシャンパーニュへの愛が、再びテタンジェ家のもとへメゾンを取り戻す大きな原動力となったはず。
番外編 〈ル・テタンジェ〉国際料理賞コンクール
芸術を愛するテタンジェはワインの製造だけでなく、料理という芸術の分野でも活動を行っている。
「〈ル・テタンジェ〉国際料理賞コンクール」は約50年の歴史を持ち、若手シェフの登竜門として数多くの優れたシェフを輩出した。
このコンクールは若きシェフに高い基準と技術的な挑戦を課すことにより、フランス料理の技術が向上することを目的としており、1970年に受章したジョエル・ロブションをはじめ、多くのミシュランスターシェフが生まれている。
テタンジェ スタイル
テタンジェでは原料の45%を自社畑で栽培している。
この高い比率での自社畑所有率が流行に振り回されることなく、安定したクオリティと価格でワインをリリースができるようになる秘訣でもある。
手作業で収穫されたブドウはメゾンが所有する3箇所ある圧搾所の内、最も近い圧搾所に運ばれ区画別、品種別に圧搾。
そして醸造を経てシャンパーニュの最も重要な工程であるブレンドが行われる。
また、テタンジェには品評委員会があり、カーブの責任者がブレンドしたワインを毎週月曜日に委員会が試飲をして味わいを決定している。
現在の品評委員会のメンバーは比較的若く、第一印象が一致する事はほとんどなく話し合いが設けられるらしいが、最後には常に全員一致の結果を導き出し、テタンジェのスタイルを体現する。
「Taittingerはブドウを育てるのであって、エゴを育てるのではない」
これがピエール=エマニュエル・テタンジェの口癖だそうだ。