Krug(クリュッグ)
『クリュギスト』(=熱狂的なクリュッグのファン。というより信者)という言葉が存在するほど、シャンパーニュ界の中でその存在は圧倒的だ。
多くの人を魅了して止まない、その秘訣はいったいなんなのだろうか。
それは間違いなく世界最高峰ともいわれるアッサンブラージュの技術だろう。
その証拠に1番低価格帯のグランド・キュベでさえ、40数種、6~10年におよぶキュベやクリュのヴァン・ド・レゼルヴをブレンドしている。
そういったことからこのグラン・キュベは「ノンヴィンテージ」と呼ばずに「マルチ・ヴィンテージ」と呼ばれている。
現当主の祖父、ポール・クリュッグはこのような言葉を残している。
「クリュッグ家の卓越性は、優れたブドウ畑の所有によるものではなく、まして単一畑シャンパンの高潔な提唱者としてではなく、完璧な醸造者、ブレンダーとしての技に基づくものでなければならない」
目次
■歴史
1843年 メゾン・クリュッグ設立
ドイツの移民であるヨーゼフ・クリュッグによってシャンパンメゾンが設立。
1840年半ばから1860年半ばにかけシャンパーニュの輸出量は倍増。
特にイギリスでの人気は高く、比較的早いタイミングから注目を浴びていた。
1903年 英国王室御用達の栄誉に輝く
売り上げは伸び続けるが、2代目のポール・クリュッグは、販売量よりも品質で知られるメゾンとしての地位を確立させることに努めた。
こうした努力が実り、1903年クリュッグは初めて英国王室御用達のシャンパーニュメゾンとして認定を受けた。
現在も英国王室にはクリュッグ愛好家は多く、かのエリザベス女王は手術のため病院に入院した際、病室へ1ケースのクリュッグを密輸したそうだ。
ドクターから飲酒を止められていたことは言うまでもない。
1971~1986 クロ・デュ・メニルの登場
クリュッグの神髄はあくまでブレンドにあると、だれもが信じていたとき、一家はグラン・クリュで最も気に入っていたメニル・シュル・オジェにある石垣に囲まれた畑を2haほど購入した。
これがクリュッグのラグジュアリーキュベの1つ、クロ・デュ・メニルの始まりである。
当初の目的は最高のシャルドネを確保するためであったが、その畑のポテンシャルを確信し、目的は単一畑、単一品種で仕込むシャンパーニュ造りに変わった。
「二人はこのシャンパーニュと恋に落ちたのです」と、当時の当主の息子であるオリヴィエ氏は語る。
そして畑の購入から15年後、厳しさとエレガンスを兼ね備えた特別なブラン・ド・ブラン、クロ・デュ・メニルがリリースされた 。
(初ヴィンテージは1979年)
1990年代 ~2008年 もう一つのラグジュアリーキュベ
グランクリュ、アンボネイ村のわずか0.68haの石垣で囲まれた畑を手に入れた。
今回の目的は、クロ・デュ・メニルと同じように単一畑、単一品種でクリュッグスタイルのシャンパンを造ること。
クリュッグはおそらく100年以上前からアンボネイで収穫されるピノ・ノワールを、ワイン造りの中心的な担い手にしていた。
特に厚くチョークが堆積しているこのクロの区画は、新しい挑戦に値する畑だったのであろう。
圧倒的な存在感と優雅なフィネスを兼ね備えたブラン・ド・ノワール、クロ・ダンボネが2008年に堂々とデビューを果たした。(初ヴィンテージは1995年)
■ブドウ農家との信頼
クリュッグはグランクリュの畑を特別多く所有しているわけではない。
むしろそんな所からと思われるような場所から最良の畑を探し出してくる。
ほぼブルゴーニュとの境にある村から産出されるブドウをテイスティングするために、約2時間かけて赴く。
到着するとすぐに、ある程度選別された良質のワインの中からさらに最良のワインを、連続48時間かけてテイスティングを行う。
クリュッグ家はこうした格付けを取っていない畑でない先にも、グランクリュやプルミエクリュと契約するときと同等の価格で契約をする。
生産の6~7割を占めるブドウは主に契約農家から買い付けているが、彼らに対しての注文は『健全で商売になるブドウを売ってくれ』ということだけだ。
3、4世代に続く長期の契約と、高く支払われる対価、それにクリュッグに使われるという誇りが、栽培家たちのやる気を引き出しているのだろう。
クリュッグのファンはあくまで『クリュッグは素晴らしい』という。
それは品種や使用しているブドウの格、醸造技術など、そういうことでなくて“クリュッグだから”良いのだ。
ブレンドの妙という伝家の宝刀に頼らず、単一畑のキュベを造る革新的な一面も見せる彼らを、「私たちが求めるクリュッグはちがう」と誹る人はいない。
他の追随を許さず、完璧を追い求め続けるクリュッグはまさに帝王というにふさわしい。
-
前の記事
Veuve Clicquot(ヴーヴ・クリコ)
-
次の記事
Salon(サロン)