G.H.Mumm(G.H.マム)
シャンパンファイトの代名詞、G.H.マム。
シャンパーニュの首都ランスに位置する最大級のシャンパン生産者であり、2015年度の販売数量において第4位を誇る。
ボトルの肩に赤いラインが斜めにかかる、特徴的なフラッグシップ「コルドン・ルージュ」は世界中の競技や競馬、レース後の表彰台でシャンパンファイトに使用されるため非常に多くの人に知られている。
しかし、テクニカルや歴史といった中身を知る人はあまり多くない。
たとえば「G.H.マム」の「G.H」とは何の略なのか。ご存じだろうか。
目次
■歴史
1827年 P.A. Mumm Giesler et C°の設立
フォン・マム家はドイツで最も古い貴族のひとつで、その起源は中世に遡る。
彼らはラインガウ出身で、「P.A.マム」名義で自分たちのブドウ畑とかなり大きな卸売会社を所有していた。
当時のドイツとフランスは友好関係にあったことから、シャンパーニュ地方に新しく支社を設立したいという強い決意のもと、G.ハウザーを長とするオフィスをランスに設立。
当時の当主、ピーター・アーノルド・マムと3人の息子たち―ゴットリーブ、ジェイコブス、フィリップ―の名を取りP.A. Mumm Giesler et C°の名義でシャンパーニュ・ハウスが立ち上がった。
1840年 畑の購入
現在マムが所有するブドウ畑の総面積はおよそ218ha。
大部分を占めるのはピノ・ノワール(78%)で、モンターニュ・ド・ランスで生産されている。
また、コート・デ・ブランにあるクラマンとアヴィーズのグランクリュではシャルドネを、ヴァレ・ド・ラ・マルヌではピノ・ムニエを生産している。
かなり早い段階からテロワールの重要性を見抜いていたマムは所有畑218haのうち160haがグランクリュと、高い所有率を誇る。
また、所有する全ての畑が、シャンパン地方でもトップクラスのブドウを生産するとされる8つの村(アイ、ブジー、アンボネイ、ヴェルジー、ヴェルズネイ、マイィ、アヴィーズ、クラマン)に位置している。
所有するそれぞれの村に圧搾機を設置するほどのこだわりを持ち、1840年にヴェルズネイに最初のブドウ畑を購入すると同時に設置した圧搾機は現在も使われている。
1852年 G.H.Mummの誕生
会社が設立して約15年。
ゴットリープの息子、ジョルジュ・エルマン・マムが会社を引き継ぎ現在の「G.H マム」(以下、マム)が誕生した。
ジョルジュ・エルマンは、ヨーロッパをはじめ、オーストラリアやニュージーランドなど世界中にセールスを行い、20世紀を迎える頃にはアメリカ、ロシア、カナダをはじめ、ブラジルやペルーなどに約20社の子会社が設立されるまでに成長していた。
1875年 コルドン・ルージュ
ジョルジュ・エルマンが造り上げた最も偉大なシャンパン「コルドン・ルージュ」は発売されて以来、G.H.マムの品質を象徴するシャンパンとして現代まで引き継がれている。
ボトルを斜めに走る赤いラインが特徴的なこのシャンパンは、発売当初ボトルネックに赤いシルクリボンの装飾を施されていた。
このリボンは、フランスで最も権威ある勲章であるサンルイ勲章やレジオンドヌール勲章の受賞者に授与される赤色の綬 (フランス語でコルドン ルージュ) からヒントを得たもの。
視覚的なインパクトの強さと大がかりな宣伝が功を奏し、メゾンの名前以上にコルドン・ルージュの名前は知れ渡った。
特に主要な輸出国であったアメリカでは年間85万本以上販売され、きらびやかな娼館で「ワイン」といったらコルドン・ルージュだった。
各国の王室で親しまれるコルドン・ルージュは1904年に英国王室御用達のシャンパンに指定された。
これを記念し、「G.H.MUMM et Co., Champagne des Souverains (G.H.マム、王族たちのシャンパン)」の文言と、栄えある顧客たちの紋章を配した特別なラベルを作成している。
現在でも、G.H.マムはエリザベス2世御用達のシャンパンであり、その証として、ボトルのネックには英国王室御用達の印である王家の紋章が表示されている。
1900年にコルドン・ルージュが初めて英国市場に紹介された時に用いられたスローガンは「the most expensive, therefore the best(最も高価なシャンパン、だからこそ最高の品質)」というものだった。
これが指し示す通りマムのシャンパンは平均的な価格よりも常に高い価格で販売されていた。
1827年当時、フランスの市場で販売されていたシャンパンの平均的な卸価格が2.75フランであったのに対し、G.H.マムのシャンパンは3.50フランと30%割高だった。
輸出市場を重視した戦略が功を奏し、メゾンの売上は1879年の50万本から1913年には300万本にまで増加し、一流のシャンパンメゾンとして認められるまでに成長した。
1914年 全てを没収
第1次世界大戦が起こると同時に、フランス国籍を持っていなかったマム家の財産はブドウ畑を含めすべてフランス政府に没収された。
シャンパーニュ地方に100年ほど定住していたにも関わらず。
1920年、ランスで最大を誇ったこのシャンパン・ハウスは競売にかけられ買収された。
その際に取締役として加わったのがルネ・ラルー。
先見の明に優れていた彼はメゾンの発展に最も重要なのは土壌と品質であると考え、グランクリュの畑を追加購入しワイナリーの発展に大きく貢献している。
彼の遺した功績を讃えて造られたシャンパンで、1966年から1985年の間に9つのヴィンテージが造られた。
その後複数の企業から買収劇のターゲットとされ、最終的に2005年から現在、ペルノ・リカールの傘下となっている。
番外編 マムとレオナール・フジタ
また、ルネ・ラルーは芸術の愛好家でもあった。
特に親交が深かった近代のフランス画家のモーリス・ユトリロや猫や女を描くレオナール・フジタ(藤田嗣治)といった著名な芸術家たちが、G.H.マムを作品に登場させた。
現在でもロゼのミュズレにはレオナール・フジタがデザインしたバラの絵柄があしらわれている。
また、2018年にリリースされたマムのプレミアム・レンジ「メゾン マムRSRVシリーズ」のロゼは「RSRV ロゼ・フジタ」としてオマージュされ、彼らの絆の深さが伺える。
・2000年 ファイト用シャンパンとして
フォーミュラ1の公式シャンパンに認定されて以来、2015年まで16年間、シャンパンファイトに使用されたシャンパンとして表彰台を飾った。
2016年4月より、G.H.マムはフォーミュラEとの公式パートナーシップを組んでいる。
また、G.H.マムは世界最大級の競馬レースであるケンタッキーダービーとオーストラリアのメルボルンカップの公式シャンパンでもある。
2016年10月に南アフリカの主要競馬イベント「J&Bメット」の冠スポンサーが39年ぶりに変わり、2017年よりG.H.マムが「サン・メット」の公式シャンパンになっている。
さらに2016年11月には、陸上競技でオリンピックの金メダルを9個獲得したウサイン・ボルトを新CEOに特別任命し、栄光と歓喜の象徴としてスポーツ界での存在感を確かなものにした。
良質な畑を所有し、王室の御用達も受け、一般的な知名度が圧倒的に高いにも関わらず、ここ数年マムは評論家や熱心なシャンパン・ファンからこき下ろされ、時には敵意さえ感じられる評価を受けているのはなぜだろうか。
実は、1982年から1991年の間に製造されたシャンパンの質がとんでもなく悪かった。
当時の醸造長であるアンドレ・カレのセンスがなかったのか、実力不足だったのか、その真意は計り知れないが、この時期を境に評判はガタ落ちした。
しかしその後醸造長が数人入れ替わり、その品質は目覚ましく向上している。
それにしてもどうにもやぼったい味わいは、肩書やプロモーションが成功しているおかげで売れているとしか思えない。
破裂音と共にコルクを吹っ飛ばして浴びるためのシャンパンではなく、グラスに注いで香りと味を楽しむためのシャンパンになってほしいと、心から願っている。
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