【ワインと美術】ワインの神とカラヴァッジョ

【ワインと美術】ワインの神とカラヴァッジョ

存在の身近さ

 

Baco, por Caravaggioカラヴァッジョ『バッカス』1595年頃
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

神の誘惑

 頬を染めて少し酔ったような様子の若者は、こちらをじっと見つめながら左手でワインの入った杯を観賞者へと差し出したばかりだ。液体の表面がグラスの縁でさざ波を立てている。鑑賞者に選択の余地はない。彼の宴への誘いを決して断ることはできない。卓の上に並べられた緻密で迫真的な静物にも目を奪われていると、彼の右手が今まさに古代ギリシャ・ローマ風の衣装を支えていた帯を解こうとしているのがわかる。そこで鑑賞者はようやく気づく。彼の誘惑はワインに対するものだけではないのだ。陶酔に耽った後の情事にまで、鑑賞者を誘おうとしているのだと。

身近な神

 描かれている若者の名はバッカス。これはローマ神話においての名であり、ギリシャ神話ではディオニュソスと呼ばれる。ワインの神であり、豊穣や酩酊をも司る。オリュンポス十二神を始めとした数多の神が信仰の対象であった古代ギリシャにおいて、民衆たちに最も愛された神であると言っても良い。

 その理由は存在の身近さである。人々はいつも身近に神の存在を感じることができる。ワインを飲みさえすればいいのだ。酔いと共に得られる幸福感。周囲の人々との一体感。胸に溜めていたはずの不安が抜け、勇気がみなぎるように感じられる。ワインは鎮痛剤や媚薬にさえなり得る。ワインは時に水不足から人々を救い、貴重な貿易資源として莫大なる富を生み出す。人々がこの神に熱狂するのも無理はない。まるで冒頭の絵画のように自分のすぐ側にバッカスが存在することを、常日頃から人間はワインを飲むことで確認できるのである。

 この神に対する親近感。これを鑑賞者に感知させ、その心を揺さぶっていく。絵画表現においてそのような境地に達した男が、カラヴァッジョなのである。

時代に求められた表現

 カラヴァッジョは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてローマを中心に現在のイタリアで活躍し、バロック芸術を牽引した画家である。彼はそれまでの均整と調和のとれたルネサンス美術とは全く異なる絵画表現を試みた。他の画家に類をみない劇的な明暗表現や徹底した細密模写を駆使することで人間の激情を表現し、聖書の物語や神秘的な情景を鑑賞者に追体験させることに成功した。冒頭の『バッカス』は彼が16世紀末に修行していたミラノを離れ、ローマで活動を始めたすぐの頃に描かれた作品である。

 カラヴァッジョの美術表現は時代に要請されていた。彼が活躍した時代のローマはカトリックが対抗宗教改革に躍起になっていた時代である。プロテスタントに対抗すべく、カトリックが打ち出した様々な改革の一つが美術の利用であった。聖書と信仰のみによる合理的な神の理解を訴えたプロテスタントに対し、カトリックは字の読めない一般大衆にも直接訴えかけることができる美術表現を用いて、イメージ戦略を行なったのだ。当然カトリックの教義に則ることは前提としながら、まるで描かれた聖人が現実に存在するかのような写実性、そして鑑賞者が感情を揺さぶられる劇的で大げさな表現が求められた。

 

Caravaggio - La vocazione di San Matteo

カラヴァッジョ『聖マタイの召命』1600年
ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂

Caravaggio - Martirio di San Pietro

 カラヴァッジョ『聖ペテロの磔刑』1601年
ローマ、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂

 さらにカラヴァッジョが活躍した頃のローマでは、1600年に迎える聖年を盛大に祝うため、大規模な美術活動が行われていた。イタリアのみならずヨーロッパ中から美術家が集結する。美術家の需要が大きく高まっていた頃だった。多くの芸術家たちとしのぎを削りながら、まさにカトリックが求めていたわかりやすく劇的で写実的な表現を確立し唯一無二の画家となったカラヴァッジョは、ローマ画壇の中心的人物になっていく。

狂気

狂気を呼ぶワインの神

 紀元前5世紀。古代ギリシャの悲劇作家エウリーピデースは傑作悲劇『バッカイ』を書き上げた。バッカイとは「バッカスを信仰する女性たち」を意味する。バッカスは元々、現代のトルコ西部に存在したリディアという国でのワインの神の呼び名であり、その呼び名はローマへと引き継がれる。この悲劇はワインの神がリディアから女性信徒を引き連れ、ギリシャの都市国家テーバイへとやってきたところから物語が始まる。ギリシャ悲劇であるため、劇中ではディオニュソスの名で登場するワインの神は、人々を狂気に陥れる存在であった。

 ディオニュソスは、彼を危険に思ったテーバイの王ペンテウスによって捕らえられてしまう。しかしディオニュソスは言葉たくみに王の心を操り、山で淫らな行為に及んでいる女性たちがいることを伝え、それを覗き見するよう促す。王ペンテウスは衝動を抑えることができなくなり、ディオニュソスと共に山の女性たちのもとへと向かってしまう。ディオニュソスは、女性たちを覗き見られるよう王ペンテウスを松の木に登らせた後、女性たちに合図を送った。

  待っていたのはあまりにも凄惨な事態である。女性たちの正体はディオニュソスがリディアから連れてきた熱狂的な信徒たちと、なんとディオニュソスによって発狂させられたテーバイの女性たちであった。その中には王ペンテウスの母とその姉妹たちも含まれていた。王の母は自ら先頭に立って、他の発狂した女性たちと共に王ペンテウスを木の上から力づくで引きずり下ろす。そして集団で王の体の部位を引きちぎり、八つ裂きにして殺害した。

  実際に古代ギリシャやローマにおいて、過激化したワインの神への信仰は人々の狂乱を引き起こしていた。集団でワインに溺れ我を忘れる。暴力や性的欲求といった人間の本性を剥き出しにする。人々はワインに身を任せることで、一時的に権力の抑圧から自らを解放することができた。ワインの神によって与えられた狂気を力に変えた、カウンターカルチャーであった。

ワインの神となったカラヴァッジョ

 実はカラヴァッジョはローマに来た最初期の頃、冒頭で紹介した『バッカス』を描く前にすでに同主題の絵画を描いていた。しかしそれは先ほどの同主題の絵画とは全く性質の異なるものであった。自らをそのワインの神に重ね合わせて描いた自画像なのである。通称『病めるバッカス』と呼ばれるこの作品には、陰鬱な雰囲気が漂う。

 

Self-portrait as the Sick Bacchus by Caravaggio

カラヴァッジョ『病めるバッカス(バッカスとしての自画像)』1594年頃
ローマ、ボルゲーゼ美術館 

 バッカス、つまりカラヴァッジョ本人は石板に寄りかかりながら、ぶどうを手に持っている。それを口に含もうとしているところだろうか。血色の悪い、苦痛に歪んだ表情は少し微笑んでいるかのようにも見える。先ほどの絵のような誘惑的な要素はそこにはない。まさに悲劇『バッカイ』で描かれた、人々を狂気へと陥れる存在のようである。虚ろで憂いに満ちた視線は、よく見ると鑑賞者に向けられてはいない。その視線の先には何があるのか。後の歴史を知る私には、彼の先に続く狂気に満ちた芸術家人生をすでに見据えていたかのように思えて仕方がない。

狂気の画家

 彼もまた、ワインの神に狂わされてしまったのであろうか。カラヴァッジョは気性が荒く乱暴な性格であった。作品制作の合間に、許可なく剣を携え乱暴な仲間と街を闊歩する。居酒屋や賭場、売春宿などあらゆる場所で諍いを起こす日々。何度も逮捕され、牢獄に入れられた。その度に彼の芸術を高く評価した上流階級のパトロンに助けられ難を逃れていたが、ついに彼は殺人にまで手を染めてしまい「死刑宣告」を受ける。見つけたものは誰でもその場で彼を殺して良いという宣告である。カラヴァッジョはローマから逃亡し各地を転々としながら、それでも芸術に没頭し、革新的な作品を創造し続ける。芸術の中心地ローマへと還る機会を必死に伺い、ようやく教皇から恩赦を受けそのチャンスを掴んだ直後、38歳にして病で息絶えることとなる。

 ワインはえも言われぬ感動をもたらし、様々な快楽をもたらす。そして度を越せば狂気までをも人々にもたらす。しかしその狂気こそが新たな芸術や文化を生み出すのかもしれない。狂気に陥ることに怯えながらも、ひとたび心を奪われたあなたは決してワインを飲むことをやめることはできないだろう。冒頭の絵画のように、ワインの神はあなたを側で誘惑し続けるに違いない。

 

 

2020年12月
篠原 魁太

 

 

<主な参考図書>

宮下規久朗『バロック美術の成立』山川出版
宮下規久朗『闇の美術史』岩波書店
宮下規久朗『もっと知りたいカラヴァッジョ』東京美術
コスタンティーノ・ドラッツィオ『カラヴァッジョの秘密』 上野 真弓訳、河出書房新社
高階秀爾『バロックの光と闇」講談社  
中野京子『新怖い絵』KADOKAWA/角川書店
ヒュー・ジョンソン『ワイン物語〈上〉―芳醇な味と香りの世界史』小林章夫訳、平凡社
内藤道雄『ワインという名のヨーロッパ―ぶどう酒の文化史』八坂書房
アンリ・ジャンメール『ディオニューソス バッコス崇拝の歴史』小林真紀子・福田素子・松村一男・前田寿彦訳、言叢社
エウリーピデース『バッカイ――バッコスに憑かれた女たち』逸身喜一郎訳、岩波書店

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