【ワインと美術:短編】ベラスケスの厨房 〜スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち〜
- 2022.07.04
- ワインと美術
19歳の画家
ベラスケス『卵を調理する老女』1618年
エディンバラ、スコットランド国立美術館
ワインの入った瓶とメロンを抱えた少年は片目を影に潜め、厳格な形相である。画面の中心を占める老女は火鉢にかけた鍋で、卵を調理しているところだ。描かれているのは、17世紀のスペインで暮らす庶民。暗い厨房に光が灯る、はっきりとした明暗の中に存在する人物の表情、衣服や肌の質感は見事なまでに写実的で、今そこで実際に調理が行われているような錯覚に陥る。彼らが手にするもの、そして前景の卓上に並べられた静物(陶器の皿、2つのピッチャー、乳鉢、ニンニク、タマネギ)の迫真的な描写。構図は精密に計算され、老女の頭を中心に、少年の頭、メロン、火鉢、卓上の静物は弧の上に配置されている。
なんと、これを描いたのは当時19歳の画家だという。画家の名前はベラスケスである。
ボデゴン:スペインの厨房画
17世紀、スペインではボデゴンと呼ばれる静物画が流行した。厨房画と訳されるが、食材や食器を用いた静物画のことである。ボデゴンという言葉は酒蔵を意味する「ボデーガ」に由来し、本来は庶民的な食事やワインが提供される台所や飲食店を意味していた。この言葉は次第に庶民の台所や居酒屋を舞台に料理や食材、食器などの静物を描いた絵画ジャンルの総称となっていった。
厳格なカトリックの国であるスペインでは、17世紀に入っても宗教主題が美術の中心であり続けたが、その中から例外的に生まれた世俗的なジャンルがボデゴンである。ベラスケスは17から24歳までの修行時代を当時スペイン最大の都市であったセビーリャで過ごした。新大陸交易の独占港に選ばれて大航海時代の恩恵を賜り大いに発展していたセビーリャは、どこか不思議と宗教性を感じさせつつも、極めて俗的で写実的なボデゴンを描くのにうってつけの場所だっただろう。ベラスケスが修行時代に描いた作品の半数近くがボデゴンであり、その中でも最も優れた作品の一つと評されるのがこの『卵を調理する老女』なのである。
偉大なる兆し
実はボデゴンは普通、純粋な静物画であり人物は登場しない。ベラスケスの作品は例外である。ベラスケスはついに純粋な静物画を描くことはなかった。素晴らしい静物模写だけでなく人物の動作や表情にも重点を置き、庶民の現実を19歳にして描き切ったのだ。
ベラスケスはのちに、栄光に衰退の影を潜めた王室の現実を描くスペイン宮廷画家となり、『ラス・メニーナス』をはじめとする傑作を次々に生み出す。後年マネによって「画家たちの画家」と評され、ベラスケスは西洋美術史における最大の画家の一人となった。この絵画で存分に発揮され、すでに19歳で完成しているかにみえる圧倒的なリアリズムはさらなる発展を遂げていく。ディテールを積み上げるミクロな写実ではなく、重要性や遠近に応じて取捨選択したマクロな写実を模索し、現代では印象派の技法における先駆者と考えられている。
この作品も含めスコットランド国立美術館の名作が多数来日している、美術展「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」は、残念ながら東京での開催は7月3日で終わってしまったが、7月中旬から神戸にて開催予定となっている。
2022年7月
篠原魁太
<参考図書>
宮下規久朗『食べる西洋美術史「最後の晩餐から読む」』光文社
大髙保二郎、川瀬 佑介『もっと知りたいベラスケス 生涯と作品』東京美術
大髙保二郎『ベラスケス 宮廷の中の革命者』岩波書店
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