【ワインと美術】手段を選ばずワインを選ぶ。旧約聖書より。

【ワインと美術】手段を選ばずワインを選ぶ。旧約聖書より。

世にも奇妙な旧約聖書の物語

 ロレンツォ・リッピ『ロトと娘たち』1645年
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

 上の絵画は17世紀に活躍したイタリアの画家、ロレンツォ・リッピの作品である。あなたにはこの絵画がどのような場面に見えるだろうか。二人の女性と一人の男性。いちばん右の年老いた男性は紅潮した顔からすでに酔いが回っているのがわかる。それでも真ん中の女性はワインの入った杯を勧める。いちばん左の女性も丸甕を構えてじっと老人を見つめている。彼らは一体どんな関係性なのか。父親と二人の娘の家族の団欒風景なのか。しかしそれにしてはどこか不思議で異様な雰囲気が漂う。二人の女性の間から、外の様子を確認できる。遠くを見渡すと、門の向こう、これは燃えているのか?鮮やかな橙の炎と立ち込める黒煙。一体ここでは何が起きているのか。

 ワインが最後の引き金となる、不気味で奇妙な物語が今回の『ワインと美術』のテーマである。

『起』

 天地創造。アダムとイヴの誕生と楽園からの追放。カインとアベルやバベルの塔、ノアの方舟など、比較的有名な物語の多い旧約聖書の『創世記』に記された物語。死海近くに位置するソドムという街に二人の主の御使いが降り立ったところから物語は始まる。

 彼らの目的は、この街を焼き払うことであった。

 このソドムという街は、隣街ゴモラと共に神に滅ぼされる運命にある。理由は街の人々の堕落である。街の男たちはふしだらな肉欲に耽っていた。ソドミーという言葉は現在でも男色を意味する言葉として用いられる。子孫を残す目的ではない、性的快楽に溺れる人々を断罪するため、神は二人の使いを街に送り出したのだ。

ギュスターヴ・モロー『ソドムの天使』1885年頃
パリ、ギュスターヴ・モロー美術館

 19世紀末の象徴主義の画家として有名なギュスターブ・モローが、『ソドムの天使』という題で神秘的に二人の主の御使いを描いている。岩山近くに浮かぶ二人の天使はこの街に降り立とうとしているところか。それとも街を破滅させるという仕事を終え、この地を去ろうとしている場面なのか。神秘的で美しいが、同時に恐ろしさを覚える絵画である。

  そしてこのソドムという街に住んでいたのが、冒頭の絵画で描かれたロトという男であった。妻と二人の娘と街で平和に暮らしていたに過ぎなかったが、危機を前に彼は選ばれし者となる。

『承』

 「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

 親切なロトはソドムの街の門の近くに座っていた二人の御使いを家へと迎え入れ、パンを焼いてもてなした。上の台詞はそこへ若者から老人まで街の男たちが押しかけてやってきた場面である。家を大勢で取り囲みわめきたてる。この言葉からだけでも彼らの堕落ぶりがわかる。ロトは使いたちを必死にかばったが、その際に街の男たちに向かって放った台詞が強烈である。

 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。」

 

 二人の使いを守るためには手段を選ばない。まさかこの二人が自身が暮らす街を滅ぼすために神に遣わされたとも知らずに。そしてこの言葉が後の、冒頭の絵画で描かれたワインの場面に繋がっていくのである。

『転』

ストーメル『ロトの家族を導く天使』1630年頃
サウス・カロライナ州、ボブ・ジョーンズ大学美術館

御使いたちはロトをせきたてて行った。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」

 二人の主の御使いはロトにこの街が滅びることを打ち明け、御使いを守ろうとしたロトとその家族は助かるよう、この街を離れることを促す。ロトは何度もためらうが、ついに決心し妻と娘二人と共に街を出る。

  主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」

  神はソドムとゴモラの街に空から硫黄の火を降らせ、街の全住民を地の草木もろとも焼き尽くす。冒頭の絵画の奥に見えた炎と煙は、焼き尽くされたソドムとゴモラが遠くに見えていたのである。

 こうしてロトたちは街を脱出し難を逃れ、冒頭の絵画の場面にようやく至るわけだが、ここで一つの疑問が生じることだろう。あの絵画にはロトと娘二人の合計三人しか描かれていない。ロトの妻はどこへ行ったのか。

 下の絵画は16世紀ネーデルラントの画家、ルーカス・ファン・レイデンが描いたとされる冒頭のものと同主題の絵画である。異時同図という手法を用い別の時間軸を同時に描いたこの絵画では、一番手前にロトと二人の娘がいるだけでなく、画面中景では焼き尽くされていく街から逃れ、ロバを引き連れながら歩く三人を確認できる。そのロバの後ろを右にたどっていくと、薄っすらと女性の影が発見できるだろうか。これがロトの妻である。後ろを振り返るなという神の忠告を破ったロトの妻は、塩の柱と変わり果ててしまったのだ。これでお膳立ては整った。いよいよ壮絶なるラストシーンである。

ルーカス・ファン・レイデン『ロトとその娘たち』1509年
パリ、ルーヴル美術館

前回紹介したギュスターヴ・ドレによる『ソドム』1866年
『聖書』を描いた版画集より

『結』

 ルーカス・ファン・レイデンが描いたとされる絵画の前景においては、泥酔しているロトが一人の娘に抱きつき、にもかかわらずもう一人の娘はワインをデカンタに注ぎまだロトにワインを飲ませようとしている。もう勘付かれている方も多いかもしれないが、冒頭の絵画も含め異なる画家たちによる同主題絵画を見ていきながら、結末を想像してほしい。

ピーテル・パウル・ルーベンス『ロトとその娘たち』1613年頃
個人蔵

 こちらはバロック美術を代表する巨匠、ルーベンスによる作品である。先ほどの絵画と同様にロトの酩酊にもかかわらず、一人の娘はさらにワインを杯へと注ぐ。真ん中の娘はその杯を左手で支えながらじっと見つめている。明らかに何かを企んでいる顔である。

フランチェスコ・フリーニ『ロトとその娘たち』1634年頃
マドリード、プラド美術館

 冒頭の絵画を描いたロレンツォ・リッピと同じ17世紀イタリアで活躍していたフランチェスコ・フリーニは娘二人の上半身を露わにすることで、その光輝く白い肌に挟まれた中央に位置するロトの落ち着かない様子を際立たせている。これはまだ酔い始める前の段階、二人の娘が父親を酒宴へと誘う場面であろう。左側の女性の左手には、ワインの入った甕がしっかりと握られている。

 聖書ではこの場面は以下のように記されている。

 姉は妹に言った。
「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」
 娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。

 その次の夜は妹が全く同じ流れでロトと床を共にするが、またもロトは気がつかない。こうして二人の娘はロトの子を身ごもった。いわゆる近親姦である。母親を失い、脈々と血をつないでいくにはこの方法しかなかったのか。これにはロトの意志は全く介在していない。あくまで二人の娘の意志として描かれている。

 ロトがソドムの街の人々から二人の主の御使いを庇う場面が思い出される。彼はソドムの街の人々から御使いを守るために手段を選ばず、非情にも二人の娘を差し出そうとした。しかもそのソドムの街の人々は神から性的堕落の烙印を押され天罰を受けたのだ。今度は神に選ばれ、街を逃れたロトの二人の娘が子孫を残すために手段を選ばず、近親姦という性的堕落に陥った。

 用いられたのは、ワインであった。

 

2021年2月
篠原魁太

<主な参考図書>

『聖書-新共同訳-』日本聖書協会
*文中の聖書引用文は全て上記による。
春燈社編『怖くて美しい名画』辰巳出版
田中澄江『愛に生きる-旧約聖書のなかの女たち-』読売新聞社
A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド-創世記からヨハネの黙示録まで-』本多峰子訳、教文館
橋爪大三郎『これから読む聖書創世記』春秋社
大岡玲『新編ワインという物語-聖書、神話、文学をワインでよむ-』天夢人
山形孝夫/山形美加図版解説『図説聖書物語 旧約篇』河出書房新社
谷口江里也訳・構成『ドレの旧約聖書』宝島社
中野京子『もっと知りたい「怖い絵」展』KADOKAWA

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