【ワインと美術】パリ万博:ボルドー格付けとジャポニスム
- 2021.09.27
- ワインと美術
目次
プロローグ
ゴッホ『タンギー爺さんの肖像』1887年
パリ、ロダン美術館
ゴッホが描いた『タンギー爺さんの肖像』という絵がある。パリのモンマルトルにあった画材店の主人・タンギーが、6枚の日本の浮世絵を背景にポーズを取っている。彼はゴッホに絵具などの画材を出世払いで渡してくれたり、ゴッホの売れない絵をショーウィンドーに置いてくれたりした人物である。心を寄せていたこの老人に日本人を重ね見て、浮世絵の背景を捧げたのであろうか。後にゴッホは理想の「日本」を求めて拠点とした南仏のアルルにおいて、「僕は……自然の中に没入しながらだんだん日本の画家ふうになってゆくだろう……老齢まで生きのびられたら、タンギー親爺みたいになるのではないか」(書簡540)と弟テオへの手紙で記している。彼はその2年後、拳銃自殺によって命を絶つ。
19世紀後半、西洋において日本文化の熱が高まっていた。大都市の多くの市民が日本の品々で生活空間を飾り、また多くの芸術家が影響を受けた。この動きを「ジャポニスム」という。特にパリにおいてジャポニスムは顕著であり、その大きな契機として初めて公式に日本が参加した1867年のパリ万博があった。この万博は日本からの使節団員に2021年の大河ドラマの主役、渋沢栄一がいたことでよく知られている。19世紀後半は日本が開国を果たし、世界へその存在を知らしめた時代なのである。
そして同時にパリ万博は開催国フランスの名声を高めるための場でもあった。威信をかけて自国の産業や芸術を世界へと知らしめるという万国博覧会の意義は、特に開催国にとって大きなものである。そのフランスが誇る産業の一つに、ワイン産業がある。
ボルドーワイン格付け
第二帝政の繁栄
フランス革命後もすぐには民衆の時代はやってこなかった。皇帝ナポレオンの時代、王政復古の時代を経てようやく共和制となったが、1848年の選挙で大統領に選ばれたナポレオンの甥が上からのクーデターを起こして皇帝ナポレオン三世となる。第二帝政期の始まりである。しかしその絶対的な権力がフランスの近代化をもたらした。
彼は先に産業革命を果たしたイギリスに遅れをとるまいと、積極的に資本家を優遇して産業を育成した。国は富み、フランスは「世界の銀行」と呼ばれるようになった。また、彼はセーヌ県知事オスマンにパリを大改造させた。広い直線の道路網整備、公園の整備、上下水道の整備。それまでの汚れたパリから現在まで続く美しいパリへと劇的な変貌を果たしたのだ。
さらにナポレオン三世が目をつけたのが万国博覧会であった。1851年にロンドンで開催された第一回万国博覧会は大成功を収めていた。これこそフランスの近代化を世界に知らしめる場となると判断し、パリ万国博覧会は1855年に開催される。ロンドン万博にはなかった、大型機械をそのままに動かして見せる演出は大評判となった。また美術展示も新たな試みとして行われ、シャンゼリゼの木立の中につくられた美術館は目玉の一つとなり、万博での美術展示はその後も踏襲されることとなる。そして農業・食品分野の出展も新たに行われる。中でも特に大きな目玉となったのが、ボルドーワインの格付けであった。
ジュールズ・アルノーが描いた1855年のパリ万国博覧会の様子
パリ、フランス国立図書館所蔵など
大成功を果たしたボルドー格付け
ナポレオン三世はボルドー商人の人気も獲得しようとした。それまで伯父ナポレオンの大陸封鎖令でイギリスへの輸出を重視するボルドーは大きな被害を受けていて、商人たちに反ナポレオン感情が芽生えていたのである。ナポレオン三世はこのパリ万博を、ボルドーワイン宣伝の絶好の機会と捉える。ただ、万博には各産業の優秀な出展にグランプリ・金・銀・銅の褒賞を与えるシステムがあるものの、それは会期の最後にならなければ判明しない。万博に出席する海外からの賓客に晩餐会や舞踏会で振る舞うワインの格を知らしめるには、前もって格付けを行うのが良いと考えた。ナポレオン三世はボルドー商工会議所に格付けを依頼する。
結果は大成功だった。まずは意外にも、この格付けは国内での消費を促進した。実は19世紀前半までのパリでは、ボルドーワインはほとんど飲まれていなかったのである。基本的にパリでは河川交通を使って容易に交易ができる産地、赤はブルゴーニュとコート・デュ・ローヌかロワール、白はブルゴーニュとシャンパーニュのワインが飲まれていた。ボルドーから積み出されたワインはパリへと遡るよりも、海上の路をロンドンやアムステルダムに直行する方がはるかに容易だった。以前の「ワインと美術」でも書いたように、あくまでボルドーは対外的な貿易により発展を遂げたワイン産地だったのである。しかし1852年に開通した鉄道がそのハンデを解消し、この万博での格付けが大きな後押しとなった。ボルドーワインの品質の高さはパリでも認知されることとなったのだ。
そして何よりパリ万博でのボルドー格付けは、対外的に大きな宣伝効果をもたらした。格付けはニューヨーク、ロンドンなど大消費地の人々にわかりやすい選択の基準を与え、その消費は加速した。ボルドー商人は大いに喜んだことだろう。結果的にはボルドーワインの価値が高まるだけでなく、ワイン産地フランスの格も上がったのである。この当時の格付けは現在まで影響力を維持しており、1973年のシャトー・ムートン・ロートシルトの1級昇格以外に変更はない。
全体を通して1855年のパリ万博はナポレオン三世の思惑通りに進んだ。この万博の成功に味をしめたフランスは、その後20世紀の間では1900年まで計5回ものパリ万博を行うこととなる。そしてこの次に開催された1867年のパリ万博が、日本が初めて参加した万博となった。
パリ万博とジャポニスム
はじめての万博参加
徳川幕府の統制力はすでに限界に近づいていた。崩壊寸前の幕府は万国博覧会をチャンスと捉える。徳川慶喜の名代として弟の昭武を送り、パリに集った各国の王族や政府首脳と王宮やホテルで積極的に交流させた。こうして政権の正当性をアピールし、ヨーロッパにおける国際世論の趨勢を幕府に有利にしようとする思惑があった。
本年、2021年の大河ドラマでもこの使節団の一員として意気揚々とパリへ訪れる渋沢栄一が描かれている。実際当時のパリはオスマンによる改造も大部分が完了しており、渋沢はナポレオン三世主導の改革がもたらした大いなる繁栄を体感したに違いない。ちなみにこのパリ万博の3年後にフランスはプロイセンとの戦争に敗れ、ナポレオン三世は捕虜となり第二帝政は崩壊する。
結局、幕府の目論見は失敗に終わることとなる。幕府とは別に参加していた薩摩藩と幕府が同格であると現地の新聞に報道されてしまったり、しまいには会期中に本国では大政奉還が行われてしまうなど散々であった。
熱狂となるジャポニスム
しかし、出品物の芸術的な評価は高かった。幕府の出品物は武器・漆器・陶器・書籍、そして浮世絵を中心とする絵図などである。特に浮世絵については当時の新作浮世絵だけでなく北斎漫画や江戸名所図会など大量の浮世絵が出品されていた。また中でもパリの人々の目を引いたのは三人の芸者がもてなす茶店だった。日本の出品物は数カ国しか獲得できていない最高賞のグランプリをはじめとして多くの褒賞を受け取り、渋沢栄一は「御国の物品、評判も至極よろしく」と手紙に認めている。
現地の新聞「Le Monde illustré」1867年9月28日の記事
日本による茶店の様子。
*フランス国立図書館は電子化が進んでいて、なんと19世紀の新聞までも無料で閲覧可能です。
この万博を発端としてジャポニスムの動きは加速していく。それまでも日本の工芸品等は輸入されていたが、あくまでもシノワズリと呼ばれる中国趣味の流行によるものであり、中国と日本はほとんど区別されていなかった。この万博において日本の特異性が認知されるに至ったのである。その後1873年のウィーン万博からは日本は明治政府として参加するようになり、次のパリ万博である1878年のパリ万博の時期に、ジャポニスムは最盛期を迎える。日本博覧会事務局は、出品物の売り上げが「巨額に達し非常の活況を呈し」たと記す。美術批評家エルネスト・シェノーは、ジャポニスムは「もはや流行ではなく熱狂であり、狂気で」あったと記している。
特に浮世絵の西洋美術への影響は大きかった。鮮やかで粋な色彩と、遠近法を無視した平坦な模写法、そして意表をつく構図や画面の切り口。浮世絵の自由さは、古典の縛りから抜け出そうとする印象派など革新的な芸術家たちの一つの道標となった。また浮世絵は版画であり、流通しやすかったのも功を奏す。絵画への引用に始まり、構図の参照、色彩や平面性の応用などが行われる。マネやモネ、ロートレックやゴッホなど、その要素を取り入れた芸術家たちは数知れない。
マネ『エミール・ゾラの肖像』1868年
パリ、オルセー美術館
*背景に浮世絵が描かれている。
上:モネ『ボルディゲーラ』1884年
シカゴ、シカゴ美術館
下:歌川広重『東海道五十三次 由井』1834年
モネの所有物など複数。
ロートレック『ムーランルージュ、ラ・グリュ』1891年
リトグラフのため各地に所蔵(三菱一号館美術館など)
*平坦な色面、唐突な切断、誇張された遠近法など、浮世絵風の要素が見られる。
日本を理想としたゴッホ
なかでも特にジャポニスムの影響を受けたのがゴッホである。この2021年をはじめ頻繁にゴッホ展が開催されるほど日本人の人気が高いのも、彼の作品にどこか日本の面影を感じるからであろうか。
左:歌川広重『亀戸梅屋鋪』1857年
東京国立博物館など
右:ゴッホによる模写1887年
アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館
1886年にゴッホは初めてパリを訪れ、画商であり精神的にも経済的にも彼を支え続けた弟テオのもとで暮らすようになる。彼はパリで多くの印象派絵画、そして浮世絵に出会い独自の表現を模索し始めた。冒頭の『タンギー爺さんの肖像』をはじめ、歌川広重の『亀戸梅屋鋪』など複数の浮世絵の模写が残っている。その後ゴッホは約2年でパリを離れ、理想の国「日本」を求めて南仏のアルルへと向かう。
「黄色とすみれ色の華が一面に咲いた野原に取り囲まれた小さな町、まるで日本の夢のようだ」(書簡487)
ゴッホ『アイリスのあるアルルの眺め』1888年
アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館
「多少金が余計にかかっても南仏に残りたいわけは、以下の通りだ。日本の絵を愛し、影響を受け、印象派の画家はすべて共通にこの影響を受けているのに、日本に、つまり日本と等しい南仏に行かないとしたら?僕はつまるところ、新しい芸術の未来は南仏にあると思っている。」(書簡500)
「僕は日本人が何をやってもきわめて正確に行うのを羨ましく思う。」(書簡542)
「日本人はいつも非常に簡素な室内で暮らしてきた。そしてなんと偉大な芸術家があの国で生まれたことか。」(書簡W15)
「今度もまたごく単純に自分の寝室を描いたに過ぎないが、ただこの絵では色彩が何事かをなしているはずで、単純化によってものにいっそう大きな様式感を与え……影や投影される部分は取り除いて、日本の版画のように平たいさっぱりした色面になっている。」(書簡554)
ゴッホ『アルルの寝室』1888年
アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館
「日本の芸術家たちがお互い同士実際によく作品を交換したことに、僕は前々から心を打たれてきた。これは彼らがお互いに愛し合い、支え合っていて、彼らの間にはある種の調和が存在していたことの証だ。それはつまり、彼らは陰謀の中ではなく、まさしく兄弟同士のような生活の中で暮らしたことの証でもある。」(書簡B18)
ゴッホは「日本人」のように芸術家たちが共同生活をすることを夢見ていた。しかしなかなか仲間はやってこない。弟テオの必死の説得によりようやくゴーギャンがアルルへとやってくるが、二ヶ月でゴーギャンはパリへと還ってしまい共同生活は終わりを迎える。この時ゴッホはゴーギャンとの口論の末に、自らの左耳の一部を切り落としている。その後は共同体の復活を模索するも実現せず、ゴッホはサン・レミの精神病院へと入る。彼が再びアルルを訪れることはなかった。
エピローグ
万国博覧会とは競争原理を利用したイベントである。商品単位で考えれば、個人や企業が発明・開発した優れた商品が一箇所に集めて展示され、競わされる。訪れた大勢の観衆は万博を楽しみながらも、そこでは生産者・流通業者・消費者、それぞれの欲望が複雑に絡み合う。審査委員による厳正なる審査が行われ褒賞が与えられる。その褒賞は商品市場で今後の競争に勝ち抜いていくためのお墨付きとなる。
そして視野を広げれば万国博覧会は個人や企業間の競争ではなく、国家間の競争となる。19世紀はフランス革命から始まるナショナリズムの時代である。フランスは自国の近代化を万博にて高らかに宣伝する。日本も自国の発展と伝統を各国にアピールし、西洋諸国と肩を並べようとする。ちなみに金・銀・銅メダルといった褒賞も含め、これらの万国博覧会の原理はそのまま近代オリンピックにも採用されている。
19世紀は私有財産制が各地で確立し、競争原理を礼賛する資本主義が加速した時代でもある。フランスにおいてその起点はやはりフランス革命であった。競争が人々の生活を豊かにする。競争は素晴らしいかもしれないが、時に残酷でもある。ゴッホの作品が生前はほとんど売れなかったように。
このような国家間の競争という大きな波に、ワインも芸術でさえも飲み込まれていったのだ。
1889年にフランス革命勃発から100年を記念して第四回パリ万博が行われた。この記念に建設されたのがエッフェル塔である。フランスの画家リヴィエールは富嶽三十六景の形式を借りて、エッフェル塔三十六景を描いている。
アンリ・リヴィエール『エッフェル塔三十六景』より
パリ、フランス国立図書館など
2021年9月
篠原 魁太
<主な参考図書>
高遠弘美『物語 パリの歴史』講談社
中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』NHK出版
池上英洋『西洋美術史入門・実践編』筑摩書房
國 雄行『博覧会と明治の日本』吉川弘文館
東田 雅博『ジャポニスムと近代の日本』山川出版社
ジャポニスム学会編『ジャポニスム入門』思文閣出版
平野 暁臣『図説 万博の歴史 1851-1970』 小学館
平野 暁臣『万博の歴史―大阪万博はなぜ最強たり得たのか』小学館
寺本敬子『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』思文閣出版
鹿島茂『サン・シモンの鉄の夢 絶景、パリ万国博覧会 』小学館
馬渕 明子『ジャポニスム―幻想の日本』ブリュッケ
*書簡487を除きすべてのゴッホの手紙は上記を参照している。
圀府寺司 『もっと知りたいゴッホ 生涯と作品』東京美術
*書簡487は上記からの引用。
宮崎克己『ジャポニスム 流行としての「日本」』講談社
大島清次『ジャポニスム―印象派と浮世絵の周辺 』講談社
NHK取材班『ゴッホが愛した浮世絵 美しきニッポンの夢』日本放送出版協会
山崎正和監修 サントリー不易流行研究所編『酒の文明学』中央公論
ワイナート編集部『ボルドー基本ブック』美術出版社
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