【ワインと美術】待望の奇跡
目次
奇跡を待つ
イエスが育ったガリラヤのナザレの町。それは今日では観光客や物売りの喧騒に満ちているが、オリーブ畠と糸杉と傘松の丘に囲まれたこの町をそれらの騒がしさのなかでじっと見ていると、到るところにみじめな人生が眼に映る。物乞いをする裸足の子供達。観光客に手を出す盲人や跛の乞食。汚水によごれた坂路の両側には狭い、暗い、小さな家々と店とが並んでいる。ヨハネ福音書には「ナザレにはよきものはない」と当時の人々が言っていたことが書かれているが(ヨハネ、一ノ四十六)、イエスの時代には、ここはほとんどユダヤ人たちには関心のない田舎町にすぎず、そこに住む者の生活は今よりもっと貧しかったに違いない。
(中略)
巡回労働者として彼が毎日みたのは、生活の辛さや貧しさだけではなかった。聖書のなかには惨めな不具者や病人が次々と出てくるが、そうした人たちはナザレやその周辺の到る所にも住んでいた。この土地は昼間の暑さと夜の冷たさが烈しいため、昔から東風の季節には肺炎で死ぬ者が多い。赤痢もしばしば発生し、特にガリラヤ湖やヨルダン川のほとりではマラリヤが流行する。聖書に出てくる「悪霊に憑かれた者」や「高い熱病患者」とはこのマラリヤにかかった病人を言うのであろう。
夏には埃と強烈な紫外線のため眼病を患う者も多かった。聖書には「癩(らい)病患者」も登場するが、この癩者たちは群れをなし、頭の毛をそり、町や村から離れて住まねばならなかった。そして不幸なことには癩者たちは人々から肉体的だけではなく、神の罰を受けた不浄な者として嫌悪されていたのである。
幸いなるかな 心貧しき人 天国は彼等のものなればなり
幸いなるかな 泣く人 彼等は慰めらるべければなり
後年、ガリラヤの山でイエスは人々にこの言葉を呟かれた。だがおそらく彼の「神の国」の姿をいきいきとのべたこの言葉と現実のナザレのみじめさとの間には、なんと言う隔たりがあったことだろう。貧しき者に神はまだ天国を与えてはいない。病に泣く人に神は慰めを与えていない。神はこうした見捨てられた者たちの悲惨さに沈黙を守っておられるのか。それとも外形に、悲惨に見える者のなかに、今は計り知れぬ深い謎がかくされているのか。
私はこの疑問がナザレ時代のイエスの心に湧かなかったとは絶対に思えぬ。・・・
遠藤周作『イエスの生涯』より
烈しい寒暖差や病気の蔓延。それに伴う差別。ローマ帝国の属州となり、傀儡政権による搾取と弾圧が人々をさらに苦しめる。貧困に苛まれ、働きづめても空腹が絶えず、乞食の絶えない世界。ローマ帝国からの独立を目指し反乱を起こして処刑される者は数知れない。その自然環境から食べ物の種類も少ない。娯楽の不足、芸術の欠如、生きる喜びの枯渇。自由な恋愛はできず、博打は禁じられ、文字を習ったり学問する時間も術もない。宗教上の禁忌から、美術作品や壮麗な建築物もない。
そういったやるせない状況だからこそ救世主が求められた。人々を救う奇跡が待ち望まれた。
そういったやるせない状況は、この絵画からはまるで感じられない。
圧巻の奇跡
ヴェロネーゼ『カナの婚礼』1563年
パリ、ルーヴル美術館
『カナの婚礼』
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がたりなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
日本聖書協会『新約聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 第2章 1-11節より
水をワインへと変えた。これが、新約聖書においてイエス・キリストが公の場で初めて見せた奇跡だとされる。当時田舎の結婚式は数日間にわたって催され、大勢の客をもてなすのが通例で、酒を切らすのは招待者側の恥とされていた。この絵画はその場面を描いている、はずだが、、一目見ただけではよくわからない。まるで時代にあっていない豪奢な饗宴。あまりにも巨大で、あまりにも多くの人数が描かれている。
パソコン、ましてやスマートフォンの画面で見るにはこの絵画はあまりにも向いていない。この絵画は見るものはまずその大きさに圧倒されるという、ルーヴル美術館で最大の絵画なのだ。幅9.94m、高さ6.77m。面積にして約66㎡にも及ぶ。この巨大な絵画の中で、総勢130人余りの人物が個性豊かに、16世紀ヴェネツィアでの宴を楽しんでいる。登場人物たちは皆、当時の多種多様な衣服を身に纏う。どれも色鮮やかで美しい。両側を壮麗な建築物の列柱廊によって枠取られた、欄干によって隔てられた二つの階層のある広々とした中庭のような場所が、まるで舞台で巨大な群像劇を見ているかのような印象を与える。食卓には当時の最高級の料理が並んでいるのもわかる。
せっかくなので順番に、細部を存分に堪能しよう。ぜひ皆さんにも画面を拡大して、当時のヴェネツィアの贅沢を尽くした宴として描かれた、イエス・キリストの奇跡を確認していただきたい。
大群像劇
画面中央部にはイエスとマリア。イエスはまっすぐ鑑賞者のほうを向いていて、その左隣にマリアが座っている。二人とも後光が指しているので、すぐにわかるだろう。その周辺にも、例えばマリアの左隣には聖ペテロなど、使徒たちが配置されている。
物語にかかわる人物としては、画面前景の壺に水を注ぐ使用人。前景右手では金と緑の刺繍を施した白い衣装を身にまとったソムリエが不思議そうに、杯の中のワインを眺めている。水がワインへと変わった奇跡に驚いてるところであろう。
前景の反対、左側には「宴会の世話役」がいる。豪華な緑の衣装。腰の短剣や小型のカバンなど、細部まで繊細に描かれているのがわかる。頭には東方風のターバンを巻いている。当時多くのイスラム商人が訪れていた海洋国家ヴェネツィアには、特に珍しくない衣装なのだ。そもそも周辺にはアフリカ系の人々も確認できる。彼が聖書の物語通り、新郎を褒めている場面であろう。「誰でも初めに良いぶどう酒をだし、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは、良いぶどう酒をいままで取って置かれました」。その世話役が向いている、画面の左端に座っている二人が新郎新婦である。
画面の中央で小楽団が音楽を演奏していることに気づく。当時のヴェネツィア共和国は巧妙な音楽家たちを数多く招き入れていた。生演奏の美しい響きが、饗宴を彩る。
人々は食事にフォークを使っている。フォークがイタリアの食卓に初めて登場したのは14世紀ごろのことだが、すぐに今のような使い方がされたわけではなく人々はそのあと何世紀もの間、手づかみで食事をし続けていた。フォークはむしろ、ある種の珍品として食卓に飾られ、実際に食べ物を口に運ぶというよりも、料理を串刺しにするために用いられた。贅沢品ないし珍品としてのフォークの位置付けは15世紀以降多くの財産目録で確認できる。フォークは宝飾品その他の貴重品と一緒に分類されているのである。
よくみると皿数の多さも目を見張るものがある。デザート用の果物が確認できる。ヴェネツィアのデザートの特徴的な要素は、東方から輸入された甘蔗糖と、砂糖漬けの果物だった。砂糖漬け=「キャンディ」の語源は、当時ヴェネツィア共和国領だったカンディア島(現在のクレタ島)に由来している。
後方、欄干に沿って左側では、金銀の皿を陳列した堂々たる飾り棚がある。この時代には、立派な晩餐会でこのように食器類を飾ってみせるのは、貴族の邸宅での決まりごとだった。実際に食事に使われるだけでなく、身分の高さを強調するものであった。
テラスの中央では召使たちが肉を切り分けていたり、その右側に目を移していくと、柱の後ろで皮を剥いだ子羊を板に載せて運んでいるのが見えたりする。もともと宴会は単なる食事とはその持つ意味が大きく異なる。神と食を共にすることで人は神や超自然に近づき、また人同士も聖なる絆を結ぶ催しが起源である。子羊は原来神への生贄を想起させるし、そこでふるまわれるワインもまた陶酔、霊感、英知を得る神聖な飲み物である。
イエス・キリストのやるせない時代とはあまりにもかけ離れた豪華絢爛で世俗的な世界。この絵画の存在そのものが、16世紀におけるヴェネツィア文化の黄金時代を象徴している。
ヴェネツィアの黄金時代
衰退と繁栄
アテネやフィレンツェなど、多くの都市文明が国力や経済が下火になりかかった頃に文化としての頂点を迎えた。ヴェネツィアもそうであった。
ヴェネツィアの政治経済は15世紀に絶頂に達した。1381年にジェノヴァと休戦条約を結ぶと、東方貿易を完全に掌握する。ヨーロッパ、スラヴ世界、ビザンツ世界、イスラム世界、そしてヴェネツィア自身の植民地からあらゆる商品を交易した。ヴェネツィア湾を超えて、ダルマチア、ペロポネソス半島沿岸、クレタ、キプロスにまで及ぶ海の覇者は、海洋と商業を制する帝国であった。年間貿易量も13世紀から15世紀の間に増大し、ガレー船の積荷は、3000トンから1万トンにも達した。ヴェネツィアは多様な人々や言語、思想が交錯する国際都市の様相を呈す。このころからヴェネツィアでもルネサンス文化が花開いた。
そして時代は16世紀である。度重なる戦乱。スペインやポルトガル、最盛期を迎えるオスマン帝国など、他国が海上交易への進出しヴェネツィアの御株を奪う。植民地を次々に失い、貿易量も大きく減少してしまう。ヴェネツィアの政治・経済は衰退に向かっていた。
しかしヴェネツィアはこの頃、ルネサンスの中心地として文化の黄金時代を迎えるのである。
刹那的で享楽的
15世紀末には有力な銀行家が次々に倒産しており、共和国の財政も度重なる戦争によって逼迫した。海上交易よりも本土からの収入に頼るようになり、それまで海外投資に奔走していた商人たちは、本土での産業に目を向け始めた。貿易不振によって行き場を失った運用資金は、毛織物を始め、ガラス、レース、印刷業など各種の地場産業に投資されるようになった。
それまで冷静に計算し、実利のみを求めた現実的な商人たちは、貿易主体であった時の多忙さから身をひき、次第に刹那的で享楽的となった。
貴族たちは大運河沿いに競って豪壮な邸宅を建てたり、別荘を建てたりして、それらの内部を豪華に装飾した。芸術がそれまで以上に大きな需要を得ることになったのである。また、もともとヴェネツィアはその海洋貿易を通じて東西との中立を保ち、思想的にも寛容な国家である。そのおかげで印刷業が振興して出版社が林立し、人々の識字率も高い。思想の自由を求めて多くの知識人や芸術家たちがヴェネツィアへと集まってきた。
こうして16世紀のヴェネツィアはかつてない文化の爛熟を示し、西洋一の文化レベルを誇ることになったのである。そしてこの黄金時代においてヴェネツィア絵画を牽引した三巨匠が、ティツィアーノ、ティントレット、そして『カナの婚礼』を描いたヴェロネーゼである。
本作の注文主であるサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院もヴェネツィア上流人仕がそれまで貯めた大金を持参金として、老後を豊かに過ごす終の住処であったという。彼らは修道士でありながら、この食堂に飾られた巨大で豪奢な絵画を眺め、酒池肉林を楽しんでいた。これぞまさしく、刹那的で享楽的である。
自由に享楽を思い描く
ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』1573年
ヴェネツィア、アカデミア美術館
ヴェロネーゼは後の1573年に『カナの婚礼』と同様、聖書の世界を16世紀のヴェネツィアの饗宴に置き換えた絵画を描いている。同じく高さ5m以上、幅12m以上という巨大な絵画で、修道院の食堂に飾るために描かれたその主題は『最後の晩餐』であった。しかしこれを描いた際にヴェロネーゼは、修道院に飾られるには不適切だとしてなんと宗教裁判所に喚問されることになる。激しさを増していた対抗宗教改革の流れが、ついにヴェロネーゼまでをも襲ったのだ。
実際に絵画を見てみると、やはり先ほどの『カナの婚礼』と同様に数多くの人物が登場する。この作品に至っては、聖書の一場面であることを示唆するのは柱に囲まれた中央の部分のみ。宗教上の適正さを欠くとされた理由は、余計な人物が描かれ過ぎているからである。特に道化、大酒飲み、矮人などが『最後の晩餐』の主題には不適切な存在だとみなされ、非難された。
しかしヴェロネーゼは絵画を描きなおすということはしなかった。機転を利かせて銘文を少し加え、題材を変えたのだ。『最後の晩餐』ではなく、神学上の慎重性が求められることの少ない、あまり有名でもないエピソードである『レヴィ家の饗宴』への変更である。
その異端審問におけるヴェロネーゼの反論証言として、以下のような言葉が残っている。
Noi pittori ci pigliamo la licenza che si pigliano i poeti e i matti….
私たち画家は、詩人や狂人たちのように、自由に想像し表現することができるのである…
筆者訳
今、このやるせない状況が続く現代においても、自由に享楽を、奇跡を思い描くことはできる。
エピローグ
『カナの婚礼』がルーヴル美術館に現存しているのは、後にナポレオンがヴェネツィアを征服した際、修道院の壁から剥がしてフランスへと持ち出したからである。数多の美術品が戦争のどさくさに紛れて略奪された。ナポレオン失脚後のウィーン会議における略奪美術品返還交渉によって多くは返還されたが、『カナの婚礼』は返還されることはなかった。その作品の素晴らしさから、フランス側が返還を拒んだと言われている。
19世紀のフランスの作家、テオフィル・ゴーティエは、ルーヴル美術館に展示されているヴェロネーゼの『カナの婚礼』について以下のような感想を残している。
「そこには、絵画のための絵画の悦楽が表現され、極限にまで高められている。それは観念やら主題やらを超えた、あるいは歴史的な正確さを超えた存在だ。その巧みな絵画技法、色合いの美しさ、それぞれの色彩の調和、そして個々の形態の釣り合いに、観るものは魅了され、驚嘆し、心を奪われてしまう。」
テオフィル・ゴーティエ
『愛好家のためのルーヴル美術館案内』
画家による、自由な奇跡の勝利である。
2021年6月
篠原魁太
<主な参考図書>
『聖書-新共同訳-』日本聖書協会
中野京子『名画と読むイエス・キリストの物語』文藝春秋
中野京子『名画の謎-中野京子と読み解く-対決篇』文藝春秋
宮下規久朗『ヴェネツィア-美の都の一千年-』岩波書店
塩野七生 宮下規久朗『ヴェネツィア物語』新潮社
塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』新潮社
中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸の共和国』創元社
ピーター・ハンフリー 『ルネサンス・ヴェネツィア絵画』高橋朋子訳、白水社
遠藤周作『イエスの生涯』新潮社
マルコ・カルミナーティ『ヴェロネーゼ-カナの婚宴-』越川倫明、山本樹訳、西村書店
*テオフィル・ゴーティエ『愛好家のためのルーヴル美術館案内』の訳は上記による。
東京都美術館/編『ティツィアーノとヴェネツィア派展』NHKプロモーション
『世界美術全集 3 ティツィアーノ ジェルジョーネ ティントレット ヴェロネーゼ』研秀出版
-
前の記事
【ワインと美術】レンブラントとオランダの光と影。巻き込まれるボルドー。 2021.04.19
-
次の記事
【ワインと美術】パリ万博:ボルドー格付けとジャポニスム 2021.09.27